梅田正己/ジャーナリスト/憲法は「単なる道具」なのか?――枝野・民主党憲法調査会長の「憲法認識」を問う/07/02/01

 


憲法は「単なる道具」なのか?
――枝野・民主党憲法調査会長の「憲法認識」を問う

       梅田 正己(ジャーナリスト。近著に『変貌する自衛隊と日米同盟』)

 前回のこのコラムで、今年元日(1月1日)の毎日新聞に全1ページを使って掲載された桝添要一・自民党新憲法起草委次長と枝野幸男・民主党憲法調査会長の対談から、桝添氏の発言を紹介した。次のような発言だった。

〈桝添氏〉 私ね、自民党の「新憲法草案」を書いていて、「(今の憲法は)いや、実によくできた憲法だな、マシンとして非常に完成したものがある」と思った。ひとつの部品をいじると、全部、いじらなきゃならない感じがした。ただ、さすがに古くなった。

 自民党「新憲法草案」の作成に実質的に最も深くかかわった当事者が洩らしたホンネの発言として記憶しておく必要があると思い、引用したが、桝添氏の対談相手、枝野・民主党憲法調査会長にも見過ごせない発言があった。
司会者の「戦後生まれとして改憲論議に世代差を感じることはありますか?」という問いかけに対しての答えである。
誤解がないように、答えの全文を引用する。

〈枝野氏〉 あえて言うと、上の世代は、憲法がカギカッコつきの「イデオロギー」の問題。自民党VS社会党の対立構図ですね。歴史、伝統への思い入れはわからないではないが、しょせんは「法」。法は道具という意識が若い世代には強いんじゃないか。私なんか単なる道具だとしか思っていない。そこに「歴史」とか「伝統」とか言った瞬間に使い勝手が悪くなって「それなあに」という話になる。

 憲法といえども、しょせんは「法」、「単なる道具」としか思っていないそうである。
しかし、憲法ははたして「道具としての法の一種」、「単なる道具」に過ぎないのだろうか。

 芦辺信喜著『憲法』(岩波書店)という本がある。司法試験受験者の必読テキストとして知られるロングセラーである。私が持っている「新版補訂版」のオビには「教科書の定番」とある。
この本の冒頭に、「憲法とは何か」についての解説がある。
芦辺・元東大教授によると、「近代的意味の憲法」は次のように定義される。
憲法とは、「専断的な権力を制限して広く国民の権利を保障するという立憲主義の思想に基づく」「国家の基礎法」である。

 では、「立憲主義の思想」とはどういう思想なのだろうか。ジョン・ロックやジャンジャック・ルソーによって切り開かれた近代自然法にもとづく立憲主義は、次のように説明される。
@人間は生まれながらにして自由かつ平等であり、生来の権利(自然権)をもっている。
Aその自然権を確実なものとするために社会契約(social contract)を結び、政府に権力の行使を委任する。そして、
B政府が権力を恣意的に行使して人民の権利を不当に制限する場合には、人民は政府に抵抗する権利を有する。

 このような立憲主義の思想に立つ立憲的憲法は、その改正の手続きにおいても、一般の法律とは異なり「硬性(rigid)」であるとされる。以下の理由による。

「憲法は社会契約を具体化する根本契約であり、国民の不可侵の自然権を保障するものであるから、憲法によってつくられた権力である立法権は根本法(fundamental law)たる憲法を改正する資格をもつことはできず(それは国民のみに許される)、立法権は憲法に拘束される、したがって憲法の改正は特別の手続きによって行わなければならない、と考えられたのである。」

 前に述べたように、芦辺喜著『憲法』は司法試験の「教科書の定番」である。
ということは、こうした憲法観が日本の法曹界でも定説として認められているということだろう。
つまり、日本で共有されている憲法観は、立憲主義の思想に立つ立憲的憲法観だということだ。
日本国憲法が立憲的憲法だということは、もちろん言うまでもない。

 ところが枝野氏は、憲法も「しょせんは「法」。法は道具……。私なんか単なる道具だとしか思っていない」と平然と語っている。
 毎日新聞の対談に付けられた略歴によると、枝野氏は1964年生まれ、42歳、東北大法学部卒で、弁護士だという。
弁護士、つまり法律の専門家が、このような非学問的な憲法観しか持っていないということは驚きだが、さらにこんな粗雑な憲法観の持ち主が最大野党の「憲法調査会長」として「憲法改正」に取り組んでいることに危機感を抱かざるを得ない。

 なお、粗雑な憲法観という点では、自民党もまた批判を免れない。
周知のように、自民党の改憲案では、現行憲法において衆参両院で議員の3分の2以上が改憲に賛成して発議するとなっているのを、半数以上の賛成で発議できるように変えようとしている。
 これは、日本国憲法が、他の立憲的憲法と同様に「硬性憲法」だということ、つまり憲法であるがゆえに改正のハードルが高く設定されているのを、突き崩そうとしていることに他ならない。
その背後にひそんでいるのは、憲法を「人権の体系」としてでなく「支配・統治の道具」としてみる見方、つまり憲法に対する軽視・軽侮である。

 9条を守る運動は、たんに受け身的に9条を守るだけでなく、こうした非学問的・非歴史的・非人民的な憲法観を打ち破り、私たち自身の憲法観を高め、深める取り組みもその中に含まれる必要があるのではないか、と切実に思う。