池田龍夫/元毎日新聞・ジャーナリスト/ 「核持ち込み密約」 元外務省高官の相次ぐ証言―揺らぐ 「非核3原則」 ―09/08/01

 

「核持ち込み密約」 元外務省高官の相次ぐ証言

 

―揺らぐ 「非核3原則」 ―

 

ジャーナリスト  池田龍夫 (元毎日新聞記者)

 

 

  「核持ち込み」について、 日米両政府の認識 ・ 解釈の食い違いが長年指摘されていたものの、 歴代日本政府は「密約はない」と一貫して主張。 真相はベールに包まれたままだが、 外交当事者だった元外務省事務次官ら高官ОB数人の 「密約はあった。 そのことを後任次官にも引き継いだ」 との発言が、 新聞に相次いで報道された。

 

  「密約の存在」 は、 ライシャワー駐日元大使の証言や米国外交文書公開などによって顕在化しており、 今回の外務省ОB発言に新味を感じなかったが、 複数の元高官が秘匿し続けていた “事実” を暴いたことには驚いた。 ただ突然の暴露発言の背景に、 政治的思惑が隠されている疑念を払拭できない。

 

  ブッシュ前大統領からオバマ大統領への米政権移行によって、 米外交戦略の転換が日米関係に強い影響を及ぼすと観測されている。 一方、 麻生太郎 ・ 自公政権の相次ぐ失政の果て、 衆院解散→8月30日投票が決定、 “政権交代” 必至の政治状況が混乱を加速している。 北朝鮮の核疑惑とミサイル発射実験が、 危機感を増幅させ、 イラン ・ イスラエルの動向など不安材料も多く、 世界各地の混乱は深刻化するばかりだ。

 

  このように激動する内外の政治状況下、 相次いで飛び出した元外務省高官の 「核持ち込み密約」 発言を聞いて、 「長年の政治的隠蔽を当時の外交責任者が認めた証拠」 と素直に受け取れない “疑念” が残る。 これらをきっかけに、 「核持ち込み容認→非核3原則見直し」 「核の傘論」、 「敵地先制攻撃論」、 さらに物騒な 「核武装論」 にまで論議がエスカレートしてきたからであり、 戦後日本が築き上げてきた 「平和主義と専守防衛」 の国是を揺るがす大問題と国民一人一人が認識し、 論議を深めるべきだとの思いに駆り立てられた。

 

  しかし麻生首相は7月14日の記者会見でも 「『密約はなかった』。 そうずっと答弁を申し上げてきている。 密約はなかったということなので、 私としては、 改めて調べるつもりはない」 と答え、 「事実関係を改めて調査したい」 との姿勢すら見せなかった。 身内の元高官の発言を全く無視しているが、 「密約の存在」 は今回の発言以前から米公文書や米高官証言で明らかになっており、 日本政府は何時まで隠蔽し続けるのだろうか。

 

  本稿は、 核問題がらみの具体的問題を整理して検討材料を提供することが主眼で、 先ず 「村田証言」 を振り返ってから問題点を探っていきたい。

 

「村田証言」 を引き出した西日本新聞=共同通信と連携の特ダネ

 

  「核持ち込み」の衝撃的証言をスクープしたのは西日本新聞で、 6月28日朝刊に大きく報じた。 元外務次官、 村田良平氏 (79) =京都市在住=が西日本新聞のインタビューに応じたもので、 1面トップに「米の核持ち込み『密約あった』/村田元次官実名で証言」のメイン見出しに加え 「手書きの紙1枚で引き継ぎ/倉成、 宇野両大臣に報告/ごまかしやめ国民に謝れ」 とのサブ見出し3本を掲げた紙面展開。 3面に、 一問一答を詳報した。 毎日新聞は翌29日朝刊1面トップで追いかけ、 『読売』 が29日夕刊1面4段、 『東京』 も同日夕刊2面に4段で報じた。 『朝日』が30日朝刊に1面4段、 『日経』は同日朝刊1面 (4段相当) を受けて4面 (特集面) にインタビュー詳報、 関係者の談話と解説を掲載した。 沖縄タイムス (6.30朝刊) の1面トップをはじめ、 多くの県紙も大きく扱っていた。

 

  西日本新聞が 「村田証言」 を引き出すきっかけになったのは、 共同通信社の特ダネ記事だった。 東京 (中日) 新聞と西日本新聞が6月1日朝刊1面トップに報じるなど、 共同加盟社の多くが伝えていた。 この記事は、 共同通信記者が4人の元外務次官に極秘に接触してまとめたもので、 「密約、 外務官僚が管理」 の見出しで 「核持ち込み」 を暴いたものだ。 「村田証言」 と類似の 「4人の証言」 まで書き込んでいたが、 匿名にする約束だったという。 その後西日本新聞記者が村田氏を訪ねて、 「実名報道」 の特ダネをモノにした努力は見事。 先行した共同通信と、 裏付け取材した西日本新聞両社連携の 「特ダネ」 と評価したい。

 

  以上、 スクープの経緯を振り返ったが、 西日本新聞6.28朝刊掲載の一問一答記事で注目した 「村田証言」 の主要個所を引用しておく。

 

  第一が核心となる証言で、 「1960年の安保条約改定交渉時、 核兵器を搭載する米国艦船や米軍機の日本への立ち寄りと領海通過には、 事前協議は必要ないとの密約が日米間にあった。 私が外務次官に任命された後、 前任者から引き継いだように記憶している」 と語っている。 このあと 「1枚紙に手書きの日本語で、 その趣旨が書かれていた。 それを、 お仕えする外務大臣にちゃんと報告申し上げるようにということだった。 紙は次官室のファイルに入れ、 次官を辞める際、 後任に引き継いだ。 倉成正、 宇野宗佑両大臣に報告した。 宇野さんの後任の三塚博さんは宇野内閣が短命だったため、 報告する前にお辞めになった。 その次に中山太郎さんが就任したが、 間もなく私が事務次官を辞めたため、 中山さんにも報告していない」 と、 実名を挙げて説明している。

 

  第二は、 昨年9月ミネルヴァ書房から出版した 『村田良平回想録』 につき言及した点である。 村田氏は 「この際、 正確に書くべきことは書いた方がいいと思い、 意識的に書いた。 北朝鮮の核武装問題もある。 核について、 へんなごまかしはやめて正直ベースの論議をやるべきだ。 政府は国会答弁などにおいて、 国民を欺き続けて今日に至っている。 だって、 本当にそういう、 密約というか、 了解はあったわけだから」 と、 質問に答えていた。

 

  第三が 「沖縄返還密約」 に絡む話で、 「72年5月の沖縄返還の前後約4年、 駐米大使館で1等書記官、 参事官として勤務していた。 若泉敬さん (佐藤栄作首相の密使) から直接聞いたわけではないが、 (沖縄返還交渉でも) ディール (密約) があったらしいというような格好で、 (日本政府関係者から) 聞いてはいた。 記録は読んだわけではないが、 若泉さんが書いたことが本当だ。 日本政府は歴史を改ざんしている」 と語っていた。

 

  西日本新聞の特ダネを知った毎日新聞は6月28日夜、 村田氏にインタビューし、 30日朝刊に詳報した。 西日本新聞の 「村田証言」 内容と差異はないが、 『毎日』 が報じた一問一答の中に、 より具体的な指摘があったので一部を紹介する。

 

  「密約についての紙が1枚封筒に入っていて、 前任者 (柳谷謙介氏) から渡された。 それを (第3次中曽根内閣の) 倉成外相と (竹下内閣の) 宇野外相に話しました。 後任の次官 (栗山尚一氏) に引き継ぎました。 …… 『密約』 を理解できる部分はありません。 非核3原則なんてものを佐藤栄作内閣の時に出したでしょう。 そんなこと自体が私に言わせれば、 ナンセンスだと思ってまして。 当時、 個人的な見解ですけど、 ……非核3原則の3番目の核を持ち込ませないという話が問題。 核を持たない、 作らないというのはいいですよ。 しかし、 核兵器を積んでいる米国の船が横須賀に立ち寄って燃料を補給して、 またベトナムに行くという場合、 そんなものは『持ち込み』には入らないですよ。 (核搭載艦船の) 寄港も領海通過も全部 『持ち込み』 と言ったこと自体がナンセンスです。 (ただ当時は) 冷戦時代だし、 日米それぞれの都合もあれば機密もあっての話ですからね、 とがめだてする話でもない。 だから黙っていただけですよ」

 

  村田氏は 「前任の柳谷次官から密約メモを引き継ぎ、 後任の栗山次官に渡した」 とも証言しており、 重大な引き継ぎが谷内正太郎前次官、 現在の藪中三十二次官までリレーされていると推察できる。 ところが政府は6月29日、 河村建夫官房長官が記者会見して 「ご指摘のような密約は存在しない」 と即座に全面否定、 「事前協議がない以上は核持ち込みがないと、 全く疑いの余地を持っていない」 と、 従来どおりの姿勢を貫き通している。

 

  約半世紀前の日米交渉が残した問題点を真剣に見直し、 よりよい外交関係を構築する努力こそ政府の責務と思うが、 〝新証拠〟に見向きもしない頑迷固陋な姿勢に憤慨している国民は少なくないはずだ。

   

「情報公開」 (2001年) 前に、 密約文書破棄の疑い

 

  毎日新聞7月8日朝刊は、 大河原良雄 ・ 元駐米大使 (90) の新証言を報じた。 「1974年11月のフォード米大統領の来日を控え、 少人数の外務省最高幹部会で木村俊夫外相 (故人) が『米国の傘の下にいる日本として (核搭載艦船の) 寄港を認めないのはおかしい』と発言、 非核3原則の『持ち込ませず』は陸上のこと。 寄港は持ち込みに含まれないとして、 解釈変更する案の検討を指示した」 と、 『毎日』記者に語っている。 田中角栄首相も修正を了承していたが、 日米会談直後に “金脈問題” で退陣、 三木武夫内閣以降 “立ち消え” になったという。

 

  次いで、 朝日新聞7月10日朝刊は、 「核密約文書の破棄  指示」 の大見出しで元外務省幹部 (匿名) の証言を掲載した。 「今回証言した元政府高官は密約を認めた上で、 破棄の対象とされた文書には、 次官向けの引継ぎ用の資料も含まれていたと語った。 外相への説明の慣行は、 2001年に田中真紀子衆院議員が外相に就任したのを機に行われなくなったと見られるという。 ……別の政府関係者は『関連文書が保管されていたのは北米局と条約局 (現国際法局) と見られるが、 情報公開法の施行直前にすべて処分されたと聞いている』と述べた。 ただ、 両氏とも焼却や裁断などの現場は確認しておらず、 元政府関係者は『極秘に保管されている可能性は残っていると思う』とも指摘する」 との驚くべき証言内容だ。

 

  このあと『毎日』7月11日朝刊も 「外務省に密約本文」 の大見出しで、 元外務省条約局長 (匿名) の証言を報じた。 「密約文書は外務省条約局などに保管していたが、 2001年4月の情報公開法の施行に備えるため『当時の外務省幹部の指示で関連文書が破棄されたと聞いた』と証言している」 と伝えており、 両紙の記事に信憑性を感じた。

 

村田良平、 岡崎久彦両氏は外務省同期生

 

  本稿を書くに当たって、 村田元外務次官が昨秋刊行した 「村田良平回想録」 を読み、 村田氏の外交官としての華麗な経歴を、 遅ればせながら知った。 エリート意識が強く、 “保守派” 色の濃い方との印象。 外交評論家の岡崎久彦氏と外務省同期で、 若い時にはワシントン駐在外交官として一緒に勤務したという。

 

  その後の経歴を見ると、 岡崎氏との接点が多く、 外交政策などに類似した考え方であることが分かった。 非核3原則や武器輸出3原則を批判、 憲法改正して集団的自衛権を鮮明にすることを切望。

 

  そして、 日米安保を再改定して、 対等な「日米同盟」を構築すべきだとの確信に満ちた持論を、 村田氏は上下2巻の 「回想録」 で披瀝している。 著書を通読して初めて、 保守派エリート外交官の思想 ・ 信条が分かった。 各新聞が報じた 「暴露証言」 だけでは真意を読み取りにくかったが、 回想録の記述から推察して、 その背景には政治的メッセージが隠されているとの思いを深めた。 そこで、 村田氏のバックボーンと受け取れる記述の一部を引用して考察したい。

 

  「1968年1月の施政方針演説で、 所謂『非核3原則』が打ち出された時には経済局にいたが、 国際資料部に移った際、 楠田実 ・ 首席秘書官に対して『私は “非核3原則” はまずいと思いましたよ、 この内容を出すにせよ、 打ち出し方についてはもっと外務省と協議して欲しかったですね』とは述べたが、 すべて後の祭りだった。 私の懸念はもっぱら第3の原則『持ち込ませず』にあった。 佐藤総理が先々の沖縄返還に際し、 当時既に『核抜き本土並み』を漠たる形ながら念頭に置かれたこと自体は理解できる。 しかし将来の核兵器持ち込みを『原則』の形で禁止することは甚だ危険だ。 もう一つの問題は、 国会での野党の追及の結果、 三木武夫外相が『核兵器を搭載している艦船や航空機の日本への寄港、 及び領海航行や領空飛行も持ち込みに当たる』の解釈を出したことだ。 しかし現実には、 特に冷戦の時期米国の艦船で核兵器を搭載したものが、 日本の領海を無害航行権に基づいて通航し、 また横須賀等へも立ち寄ったが、 日本として検認の手段はなく、 実は60年の交渉時、 寄港及び領海通過には事前協議は必要でないとの了解が日米間にあったのである」

(以上『回想録』上巻)

 

  「ここに来て米軍再編の問題が起こり、 既に米軍のあり様はどんどん変わっている。 一応日米間協議はあったというが、 基本政策は米国が一方的に方針を決めて着々と実施している。 その経費の相当部分は日本に持たせようという虫のいい話としか思えない。 アジア太平洋地域の陸上作戦を統括する司令部は、 米本土から神奈川県の座間へ移って来るし、 横田基地もいずれはアジア太平洋の航空作戦の司令部となる由だ。 かつ、 日米間の各種合意を読むと、 今や日米協力は日本と極東のみを対象とせず、 より広域に行われるようだから、 日本の自衛隊は、 安保条約のいささかの改訂もないまま、 事実上より大きい協力を求められる結果に既になっている」

 

  「今や政府は勇気を持って、 いかなるタブーもない核論議を推進する時期に到達したと認識すべきである。 幸いにして、 早くも1957年に時の岸総理大臣は、 現憲法下でも自衛のための核兵器は許されると答弁したし、 この立場は現在も生きている。 岸氏は政策論としては核兵器を持たないとしたのである。 第一の論点は『非核3原則』の第3原則がナンセンスであることだ。 ことにこの第3原則が、 日本の領海を無害通航する軍艦にも適用されという建前は不誠実ですらある。 次に極めてすぐれた日本の総理と米国大統領の合意なくしては不可能だが、 米国を説得して、 日本も一定の極めて限定的な核戦力 (あくまで報復力たる抑止力) を保持する途が探求さるべきだ」

 

  「私は、 日本が英国あるいはフランスと類似の、 潜水艦による極めて限られた自前の抑止力を保有するのが最も正しい途であり、 米国の核の傘への信頼は、 北朝鮮問題の処理によってすでに地に落ちている以上、 独自の核抑止力を持つとの日本の要請を米国が拒否できない日が、 それほど遠くない将来到来すると思っている。 極言すれば、 米国がこれをあくまで拒否するのなら、 在日米軍基地の全廃を求め、 併せて全く日本の独力によって通常兵器による抑止力に加え、 フランスの如く限定した核戦力を潜水艦を用いて保持するというのが論理的な帰結であろう。 私は何も極端な筋書きを唱える意図はない。 むしろ当面の障害は、 日本国内にある情緒的な反核感情と、 これを煽るマスコミ、 学者の勢力であるから、 日米間で腹蔵ない話し合いが核についても必要な時代が到来したという平凡な事実を指摘したいのが、 本書で核問題を取り上げた主眼である」

  (以上、 『回想録』下巻) (村田良平氏は京都府出身、 1952年に外務省入省、 外務次官、 駐米大使、 駐独大使など歴任)

                 

「核の傘」 強化へのメッセージ?

 

  元外務省高官の 「核持ち込み」 証言のすべてが、 現役時代に携わった事実や見聞に基づくものだけに衝撃的だったが、 「密約はない」 と言い張る政府側対応との “落差” に、 何かトリックが介在しているのではないか。 「何故この時期に?  核搭載艦船寄港がクローズアップされたか」 との疑念を持たざるを得ないのだ。

 

  「こうした動きの背景には、 外務省有力ОBの冷徹な打算もあるとも言える。 北朝鮮の2回目の核実験やオバマ米大統領の新しい核政策を受けて、 発言しにくい現役外交官僚に代わって、 『米国の核の傘』を強化するメッセージを発したいという思惑も透けて見える。 それに加え、 密約公開を掲げる民主党による政権交代の可能性が出てきていることから、 先手を打ち密約をなし崩しに認めておこうという保身的側面もある」

 

というコメントを、 『毎日』7.11朝刊が掲載していたが、 まことに的を射た指摘である。

 

  「秘密といっても、 中身はとうに知られており、 取り決め相手の資料や証言でも裏付けられていた。 一方の当事者が認めていなかっただけ。 新たな驚くべき事実もない。 これが、 日米の核持ち込みをめぐる現状だ。 ……今や核密約を『認めた』だけでは、 ニュースとは言えない。 なぜ今、 ОBだけが、 多くは匿名で (実名証言は旧条約局系でない人たちばかり) 認めだしたのか。 ウソを反省したわけではなく、 新たな思惑があると疑うべきだ。……オバマ核廃絶は『生きている間は実現しない目標』で、 重点は核不拡散体制の再構築にある。 『核兵器なき世界への核管理』だ。 核の国際政治を、 日本はどう生き抜くのか。 恐らく外務省は国内の政権交代に乗じ、 もはや無用になった核密約を脱ぎ捨て、 新たな核政策へ移行しようとしている。 相次ぐ『告白』は良心や正直といった道徳心の問題ではなく、 したたかな環境作りだろう」

 

との『毎日』7月18日朝刊<発信箱>は、 一連の証言ラッシュの背景 ・ 思惑を抉り出した、 見事な分析と評価したい。

                 

28年前、 ライシャワー元駐日大使の重大証言

 

  「非核3原則」 は、 1967年12月11日の衆院予算委員会で核兵器の有無が問題化した際、 佐藤栄作首相が 「核兵器を持たず、 作らず、 持ち込ませず」 と答弁したのが最初。 沖縄の本土復帰に政治生命を賭けた佐藤政権にとって、 「核抜き」 を国民に約束して悲願を達成したいとの強い思いがあり、 1971年11月24日の衆院本会議 (沖縄変改国会) では 「非核兵器ならびに沖縄基地縮小に関する決議」 が採択された。

 

  それは、 「1、 政府は、 核兵器を持たず、 作らず、 持ち込ませずの非核3原則を遵守するとともに、 沖縄返還時に適切な手段をもって、 核が沖縄に存在しないこと、 ならびに返還後も核を持ち込ませない措置をとるべきである。 1、 政府は、 沖縄米軍基地についてすみやかな将来に縮小整理の措置をとるべきである。 右決議する。 」 という画期的な決議だった。

 

  さらに1976年6月8日、 衆参両院外務委員会は核不拡散条約 (NPT) 批准に合わせ、 「非核3原則を国是として確立されていることに鑑み、 いかなる場合も忠実に履行、 遵守することに政府は努力すべきだ」 と決議している。

 

  ところが、 1981年5月、 「核持ち込みの密約があった」 という 「ライシャワー発言」 が明るみに出て 「非核3原則の虚構」 が表面化した。 駐日大使だったライシャワー氏が毎日新聞特派員のインタビューに応じたもので、 5月18日朝刊に衝撃的特ダネとして報じた。 1面トップに 「米、 核持ち込み寄港/60年代から『日本政府も承知』/ライシャワー元大使が証言」 の大見出し。

 

  長文の記事冒頭に、 「ライシャワー米ハーバード大学教授は、 毎日新聞記者とのインタビューで、 核兵器を積んだ米国の航空母艦と巡洋艦が日本に寄港してきた事実を明らかにし 『日本政府は (核兵器米艦船の寄港、 領海通過の) 事実をもう率直に認めるべき時である』 と語った。 この発言は、 1960年の日米安保条約改定以来の歴代自民党内閣が 『米国による日本への “核持ち込み” はない』 と国民に説明し続けてきた公式見解を真っ向から否定するものである。

 

  同教授は、 安保条約上、 核艦船の日本立ち寄り、 領域通過が許されることの根拠として、 米政府 ・ 軍部ははじめから『日本語で “持ち込み” とされる “イントロダクション” とは、 核の貯蔵など核兵器を陸に掲げて据えつけることを意味する。 核兵器の寄港、 領海通過を含まない』との解釈を堅持してきたことを強調した。

 

  そして『日本政府は、 核の寄港は完全にОKだという口頭合意を忘れたのだと思う』と述べ、 『日本政府は国民にウソをついていることになる』とまで言い切った」 と記し、 2~3面全面見開きで一問一答と解説を大々的に報じている。

 

  「日本語の “モチコミ” は、 英語のイントロダクション (introduction) だが、 寄港 ・ 通過ならイントロダクションではなくトランジット (transit)。 燃料補給の寄港や領海通過は許されるというのが米政府と軍部の了解事項」 との米側解釈が、 ライシャワー氏の 「核持ち込み寄港」 発言の論拠と思われる。

 

1999年の米公文書公開で明らかになった 「日米間の口頭了解」

 

  日本政府は 「核持ち込み」 を否定し続けてきたが、 1999年の米外交文書公開を機に貴重な文書が発掘された。 朝日新聞5月15日夕刊が報じた特ダネで、 「核搭載船日本寄港に大平外相 『了解』/裏付ける米公文書/『事前協議適用されぬ』」 と、 1面トップで報じた。 先の 「ライシャワー証言」 を補強するように、 米公文書に記載された 「大平外相の『了解』」 が明らかにされたことで、 “虚構性” はますます強まった。

 

  同紙は 「問題の文書は、 72年6月にレアード国防長官が、 攻撃型空母ミッドウェーの横須賀母港化や2隻の戦闘艦の佐世保への配備などを日本政府に認めさせるようロジャース国務長官に要請した書簡。 98年末に米国立公文書館で解禁された資料で、 我部政明 ・ 琉球大教授が入手した。 書簡では、 国務省側が核兵器を搭載している航空母艦を日本に寄港させる場合は日米両政府で事前協議の問題が生じることを心配したことに対し、 国防長官は『事前協議は法的にも日米間の交渉記録で問題がないことは明らかだ。 ライシャワー大使が63年4月に大平外相と話し合った際、 核搭載船の場合は日本領海や港湾に入っても事前協議が適用されないことを大平外相も確認した。 以後、 日本政府がこの解釈に異議を唱えてきたことはない』とつづっている」 と、 公文書の記載内容を報じている。

 

  ところが日本政府は 「核搭載船の寄港」 を否定し続け、 この 「米公文書公開」 から数えても10年経過してしまった。 この問題と同根の 「沖縄返還密約」 につき、 交渉当事者だった吉野文六 ・ 元外務省アメリカ局長の重大発言が2006年2月にあったことは記憶に新しい。 その 「密約文書開示請求訴訟」 第1回口頭弁論が6月16日に始まったばかり。 どちらのケースも、 米国の公文書公開によって 「密約の存在」 が国民の前に明らかにされており、 政府は 「情報公開」 の決断を迫られている。

 

「日本の安全保障」の選択肢を提起した孫崎享氏の視点

 

  村田、 岡崎両氏より十数年後輩の外務省元高官、 孫崎享氏の新著 「日米同盟の正体  迷走する安全保障」 (講談社現代新書09年3月刊) が、 日本の安全保障につき鋭い分析と提言を試みているので、 同書を参照しながら、 日本の安全保障問題につき感じたこと、 気がかりな点を記しておきたい。

 

  「平和憲法」 「非核3原則」 に象徴される、 戦後日本の “立ち位置” に関するもので、 「核持ち込み」 疑惑も結局は、 日本外交政策の脆弱さ ・ 曖昧さの所産と見ることが出来る。 この論議を突き詰めれば、 「日米同盟」 や 「核の傘」 についての本質的問題にぶち当たる。 「日米同盟」の強化が、 果たして日本の “安全弁” になり得るだろうか?

 

  「核の傘」 に頼る安保政策の危うさを感じざるを得ない。 この点につき孫崎氏は、 「米国は日本の核兵器保有を懸念し、 日米間安全保障の取引で、 日本に攻撃能力を発展させないことを含めたのである。 日本を守るのは何も米国が善意で行っているのではない。 日本の核兵器保有を防ぐことを目的の一つとしている。 米国が日本を守る姿勢を示すことは、 第一義的には米国の国益のためである。 米国が他国の兵器から日本を守るという建前を降ろせば、 日本が核兵器開発の道を歩む可能性がある。 米国はこの道は封じなければならない。 では逆に日本にとり、 この禁じられた道を開放することが正しい選択なのか。 自国の核での報復力を持つことは軍事的利点を持つ。 しかしこの利点は、 核武装の是非を考慮する要因の一つにしか過ぎない」

 

と、 ズバリ指摘している。 次いで

 

  「核戦略の原則として、 核保有国である敵が攻撃してくる際には、 核を使用する可能性が高いことがあげられる。 核を保有することは核戦争を覚悟せざるを得ない。 日本に対して核攻撃をする際には、 東京など政治 ・ 経済の中心部に対する攻撃が主となる。 例えばロシア ・ 中国は日本に壊滅的打撃を与えうる。 その一方で日本は、 ロシア ・ 中国の広大な地域からして壊滅的打撃を与えられない。 日本が核保有の選択を模索する際の最大の弱点である。 (従って) 筆者は日本の核保有に否定的である。 では、 米国の核の傘の下で万全か。 これも万全ではない。 核戦略の中で,核の傘は実は極めて危うい存在である。 米国が日本に核の傘を提供することによって、 米国の都市が攻撃を受ける可能性がある場合、 米国の核の傘は、 ほぼ機能しない。 日本は完全な傘の下にいないことを前提に安全保障政策を考えねばならない」

 

と、 「核の傘」に疑問を呈していた。

 

  日米安保条約第6条は 「日本国の安全に寄与し、 並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため、 アメリカ合衆国は、 その陸軍、 空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することが許される」 と規定している。 いわゆる「極東条項」によって防衛区域を限定しているのに、 国際緊張の激化に伴ってなし崩し的に区域が拡大されていることに危惧を感じる。 この点につき孫崎氏は、 「日本の安全保障の中核と位置づけられてきた日米安保条約について、 日米同盟は従来の安保条約の通り、 極東を中心に運営するのが望ましい」 と指摘する。

 

  次いで安全保障政策に関し三つの選択肢をあげ、 「第一に米国主導の戦略を常に受け入れること、 第二に国連主導の方針を受け入れること、 第三にNATОのように西側の価値観を有している国々の国際的機関との連携を強めることであるが、 日米の共通の戦略を米国の戦略にそのまま合わせることには疑問がある。 米国と一体化の道を進む際、 米国は日本の危険の負担を前提にしている。 次に、 国連との協調を強めるという選択がある。 (国連が機能していないとは言えないが) 安保理常任理事国のロシア、 中国が拒否権を有しており、 国連ですべてを処理できないという議論は根拠がある」 とも指摘する。

 

  三番目の選択として孫崎氏は、 「日本が可能性をもっと追求してよいのは、 NATОとの協力関係だろう。 日本は欧州諸国とは政治の民主化、 経済の自由化という共通の目標を分かち合っている。 欧州と米国で構成している軍事組織NATО内では、 一方で米国は軍事力を利用し世界の軍事的環境を変えるのを正しいと確信しているが、 他方において、 ヨーロッパは力を越えて、 法律と規制、 国際交渉と国際協力の世界に移行した状況にある。 この米欧二つの潮流の中、 政治の民主化、 経済の自由化という共通の枠組の中で互いの妥協を図っているのがNATОの現状である。 日本はNATО等欧州の決定を重んじ、 これとできるだけ協議していくという方法がある」 と、 米国に傾斜過ぎた日本の外交姿勢の修正を促している。 (孫崎氏は外務省国際情報局長、 駐イラン大使など歴任。 09年3月まで防衛大教授)

 

  多極化時代到来で国際情勢は混沌としており、 我が国の針路はさらに厳しい時代になった。 北朝鮮の不気味な動向が不安を増幅させ、 「非核3原則」 の “持ち込ませず” 条項を改めて 「非核2 ・ 5原則」 または 「非核2原則」 へと安保 ・ 防衛政策を転換させようとする動きが目立ってきたことに、 日本国民はもっと警戒の目を注ぐ必要があるのではないか。 この点で、 孫崎氏の精緻な分析に強い刺激を受けた。

 

  本稿執筆中に、 岡崎久彦氏のブログを検索したところ、 「『村田回想録』の書評」 が掲載されており、 参考になった。 岡崎氏は同書を高く評価し、 「安全保障、 憲法解釈などにつき村田氏と意見は完全に一致するが、 一致しないのはアメリカについての認識である」 と述べていた。

 

  村田氏は 「防衛」 もさることながら、 「繊維」など日米経済交渉を通じて米国の高圧的姿勢に接し、 批判的に見るようになったようで、 “日米同盟強化路線” を唱導する岡崎氏とは見方が異なっている。 また、 岡崎氏とは正反対の主張を展開している孫崎氏は外務省時代、 岡崎 ・ 国際情報局長の下で分析課長だったという。 外務官僚ОB三者三様の “外交観” が興味深かったことを、 付記しておく。 (2009年7月31日  記)

 

[注] 外務省HP 「日米安保条約第6条の解説」

 

  日米安保条約第6条の規定を受けて、 地位協定、 交換公文で 「事前協議」 等の細則が決められている。 外務省ホームページの解説が、 事前協議問題の理解に役立つと思い、 その全文を転載する。

 

 

  侵略に対する抑止力としての日米安保条約の機能が有効に保持されていくためには、 我が国が平素より米軍の駐留を認め、 米軍が使用する施設 ・ 区域を必要に応じて提供できる体制を確保しておく必要がある。 第6条は、 このための規定である。

 

  第6条前段は、 我が国の米国に対する施設 ・ 区域の提供義務を規定するとともに、 提供された施設 ・ 区域の米軍による使用目的を定めたものである。 日米安保条約の目的が、 我が国自身に対する侵略を抑止することに加え、 我が国の安全が極東の安全と密接に結びついているとの認識の下に、 極東地域全体の平和の維持に寄与することにあることは前述のとおりであり、 本条において、 我が国の提供する施設 ・ 区域の使用目的を 『日本国の安全』 並びに 『極東における国際の平和及び安全の維持』 に寄与することと定めているのは、 このためである。

 

  第6条後段は、 施設 ・ 区域の使用に関連する具体的事項及び我が国における駐留米軍の法的地位に関しては、 日米間の別個の協定によるべき旨を定めている。 なお、 施設 ・ 区域の使用および駐留米軍の地位を規律する別個の協定は、 いわゆる日米地位協定である。

 

  米軍による施設 ・ 区域の使用に関しては、 『条約第6条の実施に関する交換公文 (いわゆる<岸 ・ ハーター交換公文>』 が存在する。 この交換公文は、 以下の三つの事項に関しては、 我が国の領域内にある米軍が、 我が国の意思に反して一方的な行動をとることがないよう、 米国政府が日本政府に事前に協議することを義務づけたものである。

 

・ 米軍の我が国への配置における重要な変更 (陸上部隊の場合は一個師団程度、 空軍の場合はこれに相当するもの、 海軍の場合は、 一機動部隊程度の配置をいう)。

 

・ 我が国の領域内にある米軍の装備における重要な変更 (核弾頭及び中 ・ 長距離ミサイルの持ち込み並びにそれらの基地の建設をいう)。

 

・ 我が国から行なわれる戦闘作戦行動 (第5条に基づいて行なわれるものを除く) のための基地としての日本国内の施設 ・ 区域の使用。

 

  なお、 核兵器の持ち込みに関しては、 従来から我が国政府は、 非核3原則を堅持し、 いかなる場合にもこれを拒否するとの方針を明確にしてきている。