藤田博司 (ジャーナリスト・共同通信社社友・元共同通信論説副委員長)正直さ、公正さ欠く記事 13/05/01

 

     正直さ、公正さ欠く記事 13/05/01

藤田博司 (ジャーナリスト・共同通信社社友・元共同通信論説副委員長)

 日本の最高裁判所の長官が在日米大使館の公使と秘密裏に会い、在日米軍の駐留を違憲とする東京地裁判決の上告審をめぐって、最高裁での公判日程や評議の見通しなどを事前に伝えていたことが、米国側の公文書で明らかになった。最近のことなら政権を揺るがす大スキャンダルになるところだが、なにしろ半世紀以上前の歴史上の出来事。それにしても、日本はここまで米国に従属的であったかと思わせる事実が伝えられた。

 朝日新聞を除く在京各紙は4月8日付朝刊で、朝日は1日遅れの9日付朝刊でいずれも社会面ないし第2社会面に大きく扱った。ただ各紙の報道を読んで、その伝え方に釈然としないものが残った。記事を書く側に正直さと公正さが欠けていると思われたからである。

   報道の経緯あいまい
  理由の一つは、この公文書の存在が明るみに出た経緯が必ずしも明快に示されていないことだ。各紙の記事の書き出し部分は次のような似通った表現になっている。「(最高裁長官が米公使に日程や評議について)語っていたことを示す資料が、米国で発見された」(読売)「・・・したことが、米国立公文書館に保管された秘密文書で分った」(毎日)「・・・いたことが、米国の公文書で明らかになった」(朝日)「・・・したことが7日、機密指定を解除された米公文書で分かった」(東京)。「資料が発見された」という読売の表現を別にすれば、他はいずれも「分った」「明らかになった」という、お決まりの表現である。

 お決まりの、というのは、情報の出所が明示されない記事の書き出しで使われる常套表現だからだ。「分った」「明らかになった」と言いながら、どのような経緯で分ったのか、明らかになったのか、がまったく明らかにされていない。各紙記事の前書き部分を読んだだけでは、あたかもそれぞれの新聞の取材努力で公文書の存在が「発見され」、その内容が「分った」「明らかになった」かのような印象を受ける。

 実際は、布川玲子・元山梨学院大学教授が米公文書館に開示請求してこの文書を入手し、内容を分析した結果「分った」ことだ。各紙ともその事実に触れていないわけではない。毎日と東京は比較的長い前書きのあとに第2文節でその事実に触れている。こちらは記事を読み進める過程で、前書きが伝えた間違った印象を修正できる。一方、読売と朝日の場合、全体で80行を超える長文の記事の最後の文節で、わずか数行申し訳程度、書くにとどめている。こちらの記事では、最後まで読まないと、最初の印象を修正できない。

   情報源にも触れず
  もう一つ、各紙の記事に明示されていない大事なことがある。布川教授の掘り起こした公文書の内容を、どのような経緯で新聞が報じることになったのか、新聞がだれからその情報の提供を受けたのか、情報源について何の手がかりも示されていないことだ。朝日を除く各紙が同じ日付で一斉に報じたところをみると、この情報は同時に各紙の記者に提供されたものと推測できる。内容が各紙ほぼ共通であることから、記者会見ないしそれに準じた形で情報が公開されたものと思われる。記事のなかには布川教授のコメントを引用したものもあるから、布川教授自身が内容について説明していることもわかる。しかし、そのことを明示的に書き込んだ記事はない。

 情報の出所に一切触れないこうした記事の書き方は、先に指摘した、個々の新聞の取材努力で公文書の存在やその内容が明らかにされたような「間違った印象」を読者に残す可能性が多分にある。新聞がそれを意図していたかどうかはともかく、結果としては、公文書を掘り起し問題の歴史的事実を指摘した布川教授の存在を軽んじ、その仕事に対して払うべき正当な敬意を新聞が払わなかった、といっていいだろう。

 各紙の報道に共通しているのは、相変わらず情報の出所を明示することに消極的であること、他者の仕事を公正に評価し、仕事の成果に正当な敬意を払う正直さ、誠意が感じられないことだ。同じように公正さ、正直さを欠くと思われる報道の事例はほかにもある。新聞が競争相手に先を越された報道を後追いするとき、相手が先行した事実に一切触れず、あたかも自社が初めて伝えるかのような伝え方は、日常的に紙面で散見される。こうした報道は明らかにジャーナリズムの原則にもとる。

   報道側の傲慢さ映す
  インテグリティ(高潔、正直)とフェアネス(公正)はジャーナリズムが自らを律する規範として最も重視するものの一つである。取材、報道のすべての過程で記者は正直かつ公正であるよう心がけねばならない。そうすることが、読者、視聴者に対する記者の責任であり、義務でもある。先の米公文書に関する報道でそれを実践するなら、この情報をだれがどのように記者に明らかにしたのか、情報源を明快に伝える必要がある。長文の記事の末尾で布川教授が「開示請求して、入手した」と記すだけでは十分ではあるまい。仮に前書き部分で資料が「発見された」、公文書で「明らかになった」という表現を使うにしても、この公文書発掘が布川教授の研究の成果であることを、それに続く文章で明確に示すべきだろう。

 それを怠っていることは、正直さと公正さを欠くと見なされても仕方がない。もし報道現場がこの問題を報道ないし表現の手法上のささいな問題と考えるとすれば、大きな思い違いだろう。読者、視聴者の目線で見ると、そうした姿勢はおそらく報道側の傲慢と映るに違いないからだ。

 情報源の明示に消極的な日本の報道現場は、情報の価値を判断するのは自分たちであり、その判断に対し当然のこととして読者、視聴者に無条件の信頼を期待しているように見える。そのためにニュース報道のなかで読者、視聴者にニュース価値の判断の手がかりになる情報源をあえて明示する必要を認めていないのだ。もしニュースの受け手にも送り手とは別の判断がありうると考えるなら、そのために必要な判断材料を提供するのが送り手の責任であり、情報源を示さないニュースは明らかに欠陥商品と見なされる。

 かつて新聞とテレビが報道の主たる担い手であった時代は、送り手側のその傲慢さを受け手側もやむを得ず受け入れてきた節がある。しかしデジタルメディアの登場で報道の環境が多様化してきた時代に、送り手側が一方的に判断を受け手に押し付けることはもはや通用しなくなりつつある。旧来型のメディアの報道現場もそろそろその事実に気づいて、これまでの報道手法や表現手法を謙虚に見直すべきときにきているのではないか。

   二重写しの対米追随
  ともあれ、今回報道された米公文書が裏付ける事実は、半世紀以上の前のこととはいいながら、当時の日本が(行政府のみならず司法府までもが)米国にいかに卑屈で従属的であったかを生々しく示している。砂川事件をめぐる伊達判決の衝撃を記憶する世代のものにとっては、いまに続く日米関係のありようをあらためて考えさせられる。おりしも安倍自民党政権は米国の強い要請に応えてTPP(環太平洋経済連携協定)の交渉に参加することになった。安倍首相が聖域と国益の保護を声高に言い募るかたわらで、米国基準のより強力なグローバル化の進行が懸念されている。

 一方、尖閣をめぐって日中関係の緊張が高まるなかで、安倍政権は日米安保体制下での米軍との協力強化を前のめりで進めている。沖縄県民の強い反対にもかかわらず、普天間基地の辺野古移設を強引に実現しようとしている。沖縄の民意より対米協力を優先する姿勢には、半世紀前の最高裁長官の姿が二重写しになって見える。
  そんな時代だけに、ニュース報道にあたるメディアの責任は一層重い。インテグリティとフェアネスというジャーナリズムの基本原則を忠実に実践できなければ、その責任を果たすこともおぼつかなくなる。
                         (『メディア展望』5月号〈メディア談話室〉より転載)