藤田博司 (ジャーナリスト・共同通信社社友・元ワシントン支局長)大津いじめ報道の隠れた問題点 12/11/01

 

         大津いじめ報道の隠れた問題点

藤田博司 (ジャーナリスト・共同通信社社友・元ワシントン支局長)

 『新聞研究』最近号(2012年10月号)が「いじめ自殺報道を考える」という特集を組んでいる。大津市の中学2年生の男子生徒がいじめを苦に自殺してこの10月でちょうど1年。新聞がこの問題をどう報道してきたかを振り返って、読売新聞大阪本社と京都新聞滋賀本社の二人の記者がそれぞれの報道の経験を踏まえた論稿を寄せている。

 二つの論稿は、いじめや中学生を対象とした取材のむずかしさや今後の報道のありようについていくつか貴重な考察や問題提起をしている。それらの点はそれぞれの論稿を参照していただくとして、ここでは、二つの論稿では触れられていない、しかし結果として今回の一連の報道がきわめて不十分だった原因と思われる問題点を取り上げてみたい。

散発的だった初期報道
  いじめ報道は当事者が主として生徒やその周辺の人たちであることから当然、取材の仕方や報道の表現にもそれぞれの人権やプライバシーに配慮する慎重さが求められる。今回も各社の取材現場がそうした側面に相当の注意を払って報道に当たったことが、二人の論稿からもうかがえる。しかし昨年10月以降の報道の経緯を振り返ると、人権やプライバシーへの配慮以前に、取材活動の基本の部分で大事な作業が抜け落ちていたのではないか、と思われてならないのである。

 それは、昨年10月の男子生徒の自殺のあと、問題が全国的な注目を集めるに至った今年7月までの報道の流れを見ると、おのずと浮かび上がってくる。朝日新聞のデータベースで「大津」と「いじめ」をキーワードにこの1年間の記事を検索すると(10月5日現在)、505件の記事がヒットした。これには他県で起きたいじめなど、大津の事件に直接関係のないものも多く含まれている。この505件のうち470件は7月4日以降3か月間の記事で、それ以前の9か月間はわずか35件にすぎない。しかもこの35件のなかで大津の男子生徒の自殺に直接関わる記事は10件前後で、散発的にしか取り上げられていない。

 このことは、7月初めまで、メディアはおおむね大津のいじめ問題の報道にそれほど熱心に取り組んでいたわけではないことを示している。7月4日の紙面を境に報道ががらりと変わったのは、亡くなった男子生徒の遺族が起こした民事訴訟で、いじめた側の生徒が男子生徒に対し「自殺の練習をさせていた」と指摘していることが明らかになってからである。その後、大津市教委や学校側がそれまで、アンケート調査の結果を隠していたことや虚偽の言い訳をしていたことなどがつぎつぎに明るみに出た。そして「いじめ」の内容が暴力行為や恐喝、脅迫などの犯罪行為に及ぶ疑いがもたれるに至って、県警が市教委や学校に捜査に踏み切った。

長かった報道の空白
  こうした事態になって新聞は連日大きなスペースを割いて、全国版の紙面でもニュースを伝え始めた。各紙とも連載企画などを組んで、事件の背景なども詳しく報じるようになった。

 しかし、これらの事実が報道されるまでになぜ9か月もの時間を要したのか、疑問がわいてくる。男子生徒のマンションからの「転落死」がわずか20行程度の記事で伝えられたのが昨年10月12日(朝日、滋賀県版)。このときは「いじめ」との関連には全く触れていない。11月3日付紙面で初めて「同級生からいじめ/市教委、中2転落死で調査」といじめとの関連が浮かび上がる。同日付県版記事では、教室でも暴力や嫌がらせ行為が目撃されており、担任の教師もその報告を受けていたことが指摘されている。

 同月17日には男子生徒の父親がいじめと自殺の関係究明を学校に要望したことが報じられている。ところが、その後3か月以上、この問題は紙面に登場しない。次に各紙が大きく取り上げたのは12年2月24日、遺族が加害生徒3人とその保護者、大津市を相手取り、自殺がいじめを原因とするものだと主張して損害賠償訴訟を起こした時である。

 しかし、その後もこの問題では報道の空白が続く。そして4か月あまり経った7月初め、共同通信大津支局が先の「自殺の練習」を含むアンケートの内容をスクープしたことから過熱報道状態に突入したのである。この報道パターンは先の読売新聞記者や京都新聞記者の論稿で明らかにされている両紙の報道の流れともほぼ軌を一にしている。他紙やテレビも同様の報道をしていたと思われる。

 自殺といじめの関連は昨年11月の段階で疑われていた。市教委と学校は校内でアンケート調査などを実施、その結果も出ていた。しかし当局側は、当初から「いじめと自殺の因果関係は不明」「いじめとの認識はなかった」などの釈明を繰り返し、遺族が訴訟に踏み切った段階でもなお、同じ釈明を繰り返していた。それが当局側による情報隠し、不誠実な説明とわかるまでに、9か月もの長い時日を要したことになる。

遅れたいじめの実態把握
  このことは、メディアがそろってその間、おとなしく当局側の説明を額面通り受け入れていたことを裏づけている。それに疑いの目を向ける機会は幾度もあったはずだし、本気で真相を取材する気があれば、訴訟にまで踏み切った遺族やその関係者からでも取材できたに違いない。いじめの実態についても、多くの生徒が目撃ないし伝聞で知っていたわけだから、当局の主張を覆す情報を入手することは不可能だったとは思えない。

 しかし結局7月初めまで、メディアはいじめの詳しい実態を自力では確かめられなかったのである。これは、メディアの取材能力が恐ろしく衰えていることを示したものとは言えまいか。今回の大津いじめ事件報道でメディアの現場が反省すべき最大の問題は、ここにこそあるのではないかと思われるのだが、どうだろう。

 こうした見方は紙面上での報道だけを踏まえた判断であり、現場の記者にはむろんそれなりの事情や言い分があるに違いない。だが、大津の現場を取材した、おそらくは数十人を下らないであろう記者のうちのだれ一人、もっと早い時期にいじめの実態を暴く記事を書けなかったことが、とても信じがたいのである。

 ただ、これを単に現場記者の取材力の低下として片づけるのでは何の解決にもならない。問題はなぜこうした状況になっているのか、を考えてみる必要がある。思い起こされるのは、昨年の福島原発事故のあと、長期間にわたってメディアが原発周辺地域の現場取材を怠ったケースである。放射能の危険と当局による立ち入り規制を理由に、ほとんどの新聞もテレビも記者を現場に送り込むことを控えた。体よく言えば自主規制、厳しい言い方をすれば、報道の責任放棄に等しい対応だった。

 大津のいじめ報道では身体的危険や当局によるあからさまな取材規制があったとは思えない。が、それでも、未成年者への取材に極度に慎重を期すあまり、いじめの実相に迫る努力に自主規制をかけたということはなかっただろうか。周囲から批判されることを恐れ、取材活動を控えることはなかっただろうか。原発周辺地域の現場取材を控えたのと同じメンタリティがなかったかどうか。

法令順守の呪縛?
  福島と大津の二つの現場取材の背景に見て取れるのは、コンプライアンス(法令順守)の呪縛である。当局や取材対象と事を構えるのを嫌い、事なかれを最良の策とするメディア上層部の姿勢が、現場記者の積極的な取材活動の手足を縛っていることはないだろうか。もしあるとすれば、そのことこそが大津いじめ報道をめぐって、今回あまり語られていない反省点であり、問題点だと言えるのではなかろうか。そこに人権やプライバシーへの配慮以上に重大な問題が潜んでいるように思えてならないのである。
  (『メディア展望』2012年11月号「メディア談話室」より転載)