藤田博司 (ジャーナリスト・共同通信社社友・元ワシントン支局長)記者の「思い」を感じたい 12/07/02

 

           記者の「思い」を感じたい 

             藤田博司 (ジャーナリスト・共同通信社社友・元ワシントン支局長)

 次のような記事を読者はどう読むだろうか。
   関西電力大飯原発がある福井県おおい町で、第三セクターが運営するホールが今月、 再稼働に反対 する市民団体が主催する講演会での使用申請を、いったん許可した後に 取り消していたことが19日、 分かった。ホール側は「施設の趣旨に合わない」と説明して いる。
   ホールは、町が9割以上を出資する「株式会社おおい」運営の「悠久館」。申請した女性 によると、17日に「講演会で26日に使用したい」とホールを訪れて申込み、その場で許 可を得た。
   しかし、17日夜にホール側から講演会の目的を問い合わせる電話があり、主催団体名 などを伝えると「キャンセルしてほしい」と告げられた。(共同通信2012年5月19日)

不完全、不親切な記事
  全文でこれだけの記事である。いま文章のお粗末さは問わない(第一文に助詞の「が」が5個も登場する)。問題は、この記事が読者に何を伝えようとしているのか、はっきりしないことである。推測すれば、いったん使用許可したものを「キャンセルしてほしい」というホール側の申し入れは不当だと言いたいのだろう。おぼろげにそれは、わかる。しかしこのままでは、事実関係も不明確だし、説得力もまるでない。

 記事がその意図するところを伝えたいなら、市民団体側の言い分をきちんと聞かねばならない。「施設の趣旨に合わない」というホール側の説明をもっと突っ込んで質す必要があるだろう。原発の再稼働をめぐる地元市民の間の空気も背景の説明として必要だろう。そうした要素を欠いたこの記事は、ニュースとしては極めて不完全、読者に対してひどく不親切と言わざるを得ない。

 しかしこの記事には、それ以上に大きく足りないものがあるように、筆者には思われる。この記事で何かを伝えようとする記者の「思い」、少し大げさな言い方をすれば、報道の仕事に携わるものの気概みたいなものがまったく感じ取れないことである。

 報道記事のすべてがそうした「思い」に支えられているべきだ、というのではない。しかしこの記事のように、記者が少なくともホール側の措置に違和感を持ち、それなりの問題意識に基づいて取材したものであれば、自分が伝えたいと考える問題点をもっと明快に、具体的に、できるだけ詳細に伝える努力をすべきだろう。その努力のあとが、この記事には見えないのである。

 欠陥記事の責任は記者だけのものではない。むしろこの記事をチェックしたデスクの責任が大きい。その意味では、報道の仕事に対する思い入れが報道の現場全体でだんだん希薄になっているのではないか、という懸念もわいてくる。それというのも、この短い記事は決して例外ではないからである。

まるで他人事のように
  次の記事にも同じような問題がある。
   東京電力福島第一原子力発電所事故の原因となった全交流電源喪失について、国の 原子力安全委員 会の作業部会が1992年、新たな対策が不要である理由を「作文」する よう、東京電力と関西電力 に要請していたことが4日、わかった。
   作業部会が両者の作成した文書などを基に「全交流電源喪失による炉心損傷確率は低 い」と結論を まとめたため、原発の安全設計審査指針は見直されなかった。安全委事務 局は両社とのやり取りに関 する文書を公表せずに放置していたが、国会事故調査委員 会の指摘で判明した。
   作業部会は、海外の原発で長時間の電源喪失への対策が義務付けられたのをきっか けに91年に設 置。有識者の専門委員5人のほか、東電や関電などが協力者として参加 した。会議は非公開だった。 (後略)(読売新聞2012年6月5日)

 この記事は少なくとも二つの重大な事実を指摘している。一つは、原発の安全性監視に責任を負うはずの安全委員会が、より高度な安全対策を不要とする理由の「作文」を電力会社に書かせて責任を「丸投げ」していたこと。もう一つは、この間の事情を示す資料を、安全委員会が国会事故調に指摘されるまで隠していたこと、である。前者は業界と役所、原子力専門家らの癒着を、後者は役所の懲りない隠ぺい体質を裏付けている。

 二つの事実は、福島第一原発事故のあと、事故の原因究明と責任追及に関わる問題として、市民にとっては最大の関心事である。メディアは当然、これらの事実を掘り下げて、さらに詳細な事実や問題点を読者、視聴者の目にさらすべき事柄である。が、記事はまるで他人事のように、最小限の事実を並べただけで終わっている。

例外だった産経、東京
  作業部会が当時、責任を「丸投げ」せずに、全交流電源喪失の対策を強化していれば福島の事故は避けられたかもしれないことさえ指摘しない。相も変らぬ役所の隠ぺい体質をあらためて糾弾することもしない。この記事を書いた記者の、あるいは記事をチェックしたデスクの、二つの事実に対するジャーナリストとしての「思い」が見事に不在なのである。

 同じ問題を同日に報道した朝日、毎日両紙の記事は、読売の記事より多少、長く、詳細な事実に触れてはいた。ただ、記事の基調は読売と同様に「作文」を要請したことや文書を隠匿していたことを指摘しただけで、それぞれの事実が今日の状況で持つ意味や、今後それらの問題をどう扱っていくのかという点に踏み込んだものではなかった。報道に携わるものの、これだけはぜひ伝えたいという「思い」はやはり見えなかった。

 例外は産経新聞と東京新聞だった。もともとこのニュースは前日の4日付朝刊で産経新聞が特報したもので、産経は1面と2面を使って問題の一連の経緯と背景を詳報していた。翌日後追いした東京は、他の各紙が地味な扱いをするなかで、1面トップにこのニュースを据え、原子力安全委員会の文書の隠ぺいを厳しく批判し、さらに2面でも役所と原子力専門家、電力業界が一体となって「安全」を「作っていた」癒着の関係を詳しく描き出していた。

 産経、東京の紙面にはっきり表れていたのは、原発をこれまで推進してきた政府、電力業界、専門家らの馴れ合いと秘密主義をこれ以上許すわけにはいかない、という強い「思い」である。他の新聞にはその「思い」が感じ取れなかった。

もっと自由に、大胆に
  「記者の思い」が強くにじむような記事は客観報道の原則に反するのではないか、との声も聞こえてきそうな気がする。が、「思い」をにじませることと、独りよがりの思い込みに基づいて書くのと同じではない。「思い」は「問題意識」に置き換えてもいい。「伝えたい理由」でもある。それなしには、報道することの意味がない。

 最近の新聞記事は「面白くない」との評をしばしば耳にする。それはおそらく、読者の感性に響くような記者の「思い」を運ぶ記事が減っているせいではないか、と思われる。 現場の若い記者たちの間に、社会への関心が薄れ、報道という仕事に注ぐ熱意が乏しくなっているのかもしれない。だとすれば、ジャーナリズムの将来は暗い。

 いや、そうではあるまい。現場の記者たちがもっと自由に、もっと大胆に自分たちの「思い」を伝えることを妨げているものがあるのではないか。社内の事なかれ主義やコンプライアンス重視に毒されて、安全運転ばかりを心がける風潮が「面白くない」新聞を作っているのではないか。
                          (メディア談話室「メディア展望」7月号より転載)