桂敬一/日本ジャーナリスト会議会員・元東大教授/メディアウォッチ(64)だれが牧伸二を死なせたか―時代を映し出せなくなったメディア 13/05/23

kuruma

 

メディアウォッチ (64) 2013年05月23日

 

だれが牧伸二を死なせたか―時代を映し出せなくなったメディア

桂 敬一(マスコミ九条の会呼びかけ人・日本ジャーナリスト会議会員・元東大教授)

 4月30日、新聞・テレビがいっせいに、戦後昭和の最盛期にウクレレ漫談で人気を博した、牧伸二の死を報じた。続報によれば、彼は前日29日未明、東京・大田区と神奈川・川崎市とを結ぶ中原街道の丸子橋の手摺りを乗り越え、下を流れる多摩川にみずから身を投じた、ということだ。橋の欄干には彼が遺した杖が立てかけてあったという。彼は11年前、脳出血で後遺症に悩まされ、歩行には杖を必要としていた。橋の中央までゆくのに車を使った形跡がない。タクシーを使っていれば、何らかの情報が得られたはずだ。東急・多摩川線の多摩川駅か、ひとつ蒲田寄りの沼部駅で下車し、難儀しながら辿り着いたのか。あるいは自宅は大田区だというので、丸子橋が近かったのなら、川に向かうあの中原街道の長い坂を、橋の半ば目指し、不自由な足で下っていったのだろう。遺書は発見されてない。二度と戻らぬ道を、覚束ない足どりで独り往く彼の姿を想い浮かべるとき、悲しみとともに、なぜか、いいようのない大きな怒りを感じる。

 私は若いころ、ほとんどテレビをみない人種だった。みることができなかったのだ。姉や弟が中学卒で働く、食うや食わずの暮らしの家に、テレビはなかった。私は昼間の都立高校に通っていたが、週日は全部、よそで晩飯付きの家庭教師。夏休みなどは町工場などでのアルバイト。仮に狭い家にテレビがあっても、みる時間がなかった。大学にいっても事情は同じ。大学の4年からは、家にもいられず、裕福な叔母の家に間借りし、家を離れたが、週7回の家庭教師、翻訳などのアルバイトに追われ、そこには寝に帰るだけで、茶の間のテレビはみることもなかった。大学3年の1958年、日清製粉社主の令嬢、正田美智子さんが皇太子(現天皇)と婚約、「粉屋の娘」が王子様に見初められたと、メディア好みの話題が弾け、ミッチー・ブームが巻き起こり、プロダクト・ライフサイクルの初期段階にあったテレビが100万台の大台に乗り、ご成婚の翌年には一気に200万台に達し、本格的普及期に突入した。私は、月給の安い団体に就職、東武東上線の郊外に建つ、住宅公団の世帯者向け団地に独りで入居していた兄に誘われ、同居することになったが、二人一緒でも、テレビを買う余裕はなかった。蕎麦屋の壁の棚の上とか、駅前広場のヤグラの上とかに置かれた受像機で、力道山や美空ひばりを眺めるのが、テレビというものだった。

 テレビがうちにきたのは、1963年になってからだ。兄は60年安保の騒ぎが収まった翌年ごろ、神奈川・川崎市の中学の教員に採用されたが、埼玉・川越近くの団地からはとても通いきれず、居住名義をそのままに、私を残して出ていった。それから3年近く独り暮らしをしていたが、いつの間にか女性と一緒に暮らすことになった。職場にアルバイトにきていた女性、現在の妻だ。多摩川べりの町から埼玉の辺鄙な団地によく遊びに来たものだ。来るたびに、鍋や食器の類が増え、やがて電気冷蔵庫が来着、ついで本棚が来て積み上げてあった本が収まり、畳部屋が片づき、本人がそのまま自宅に帰らなくなったころ、ダイニングキッチンの冷蔵庫の上に、小さな白黒テレビが鎮座した。結婚式はしなかった(カネがなくてできなかった)が、到来の品々は妻の嫁入り道具というわけだ。そのテレビで日曜日に発見したのが、牧伸二だった。日本教育テレビ(現在のテレビ朝日)、日曜日正午からの「大正テレビ寄席」の司会者として活躍していた彼である。落語は好きだったので、ラジオでよく聴いており、あまり好きではなかったが、同じ寄席芸の漫才や声色・物まねも、多少は知っていた。ところが、牧伸二司会のこの番組の出演者の笑わせ方は、伝統的な寄席芸のそれとは、ひと味もふた味も違っていた。漫才の「コロンビア・トップ・ライト」はすでに馴染みの存在だったが、ここでは痛烈な政治風刺を放ったりした。初めてお目にかかる「コント55号」や「てんぷくトリオ」は、奇っ怪な所作とともに、痛快な社会風刺を披露してくれた。それらは、時代の不条理を映し出していた。

 司会の牧伸二自身が、ウクレレを爪弾きながら登場、例の「やんなっちゃった節」の新作を、鼻歌の乗りでいくつか紹介、番組の気分を盛りあげるのが慣わしだったが、その多くが政治や社会の出来事を風刺するもので、それはニュース性豊かなものだった。「ビルが建つよ、道路ができる/高速道路のその裏側で/スピードアップは汚職です/オーショク(汚職?)人種じゃ無理もない/ああ、ああ、やんなっちゃった/ああ、ああ、驚いた」。最初の4つの区切りがそれぞれ1行で、4行詩(ソネット)だ。それにどの作にも「ああ、ああ、やんなっちゃった」のリフレインがつく。高度成長で会社が大いに潤い、その余滴が社員にも回り、マイカー、マイホームにありつける人も増えていった。ところが、安月給のわが家は、高度成長の余恵とは無縁だった。「公約すぐに忘れちゃう/政治家やはり呆けてるか/いえいえ呆けていませんよ/上に「と」の字がついてるよ」。列島改造計画といっても、こちらにはピンと来ない。政治家の汚職の大型化ばかりが鮮烈に思い出される。牧伸二は、時代に流される国民大衆の軽佻浮薄にも、遠慮のない裸の眼を向けた。「フランク永井は低音の魅力/神戸一郎も低音の魅力/水原弘も低音の魅力/牧伸二は低能の魅力」。だが大衆を、ただ冷たく突っ放すのでなく、自分をも茶化す眼差しがそこにはあり、それが優しさを保証していた。後のたけしのようには、シニシズムに陥らなかった。

 わが家にテレビが来た。おかげで、滑り込みセーフで東京オリンピックもテレビで見られた。しかし、世間を知るものとしては、牧伸二との出会いのほうによほど大きなありがたみを、テレビに感じた。だから腹が立つのだ。なんで今のテレビには「牧伸二」がいないのか。そもそも彼をそこにいられなくさせたのも、今のテレビのせいではないのか。彼自身に限れば、年齢とともに体力も衰え、時代感覚も鈍磨し、才能が涸渇したのかもしれない。しかし、才能のある若者たちが彼のあとを襲ってつぎつぎに出現、鋭い政治風刺、社会風刺でテレビを賑わせ、国民大衆を笑わせつづけてきていたら、それを見る彼も嬉しく思い、満足したに違いない。自分の苦労が報われたことを日ごろ目にしていたら、彼も自殺はしなかったはずだ。それにしても、なぜテレビはそういう才能を、つぎつぎに生み出すことができなかったのか。バブル崩壊直前の80年代末、風刺コント集団「ザ・ニュースペーパー」が登場した。ネタはいくらでもあった。だが、小泉構造改革のころは、まだ多少テレビでも見かけたが、もっとネタになるはずの第1次安倍内閣ぐらいからは、とんとテレビに現れなくなった。見たければ、劇場公演にいくしかなくなった。「爆笑問題」もせっかくの才能を燻らせっぱなしだ。「3・11」後となると、ネタはいっそう溢れかえっているのにだ。最近、ユーチューブにアップしてあった「原発やんなっちゃった節」のソネットを発見した。なんと大震災発生後、3か月も経たない6月1日のアップだ。「ただちに影響ありません/健康被害はございません/20ミリでも安全です でも/20年後は知りません」、「ヨウ素の半減期は8日間/セシウムならば30年/プルトニウムは2万4000年/そんなに長生きできません」、「津波の高さは 想定外/電源喪失 想定外/炉心溶融 想定外/あんたの給料も 想定外」。冴えているではないか。投稿なので、オリジナル作詞者の名前が分からないのが残念。

 ヨーロッパはエンタテインメントとしての政治風刺・社会風刺がメディアのうえでも健在だ。フランスでは、ときに賛否相半ばするが、有料の民間放送「カナル・プリュス」の、著名な政治家をモデルにした情報人形劇「レ・ギニョル・ド・ランフォ」が評判だ。ほかでは、政治家の物まねをするステファン・ギヨンが人気者で、ラジオで替え歌をはやらせたりしている。英国でも「そっくりさん人形(Spitting Image)」による政治風刺番組があちこちのテレビでやられているし、「ミスター・ビーン」でお馴染みのローワン・アトキンソンは、あれで風刺的な喜劇もこなしている。ドイツ第2テレビ(ZDF)の政治風刺番組「ホイテ・ショー(Heute Show。今日のショー)」も、よく見られている。「犯罪会社・東京電力の正体」なんて特集をやったのだから、恐れ入る。アメリカでさえ、映画監督、マイケル・ムーアは政治のインチキを笑い飛ばすような、果敢なドキュメンタリーをつくりつづけてきたし、お笑い専門のテレビ「コメディ・セントラル」では、番組「デイリー・ショー」のキャスターを務めるジョン・スチュワートが、マードックのフォックス・テレビで露骨なブッシュ贔屓をつづけてきた司会者のビル・オレイリーや、経済テレビ・CNBCで金融バブルを煽ってきたリック・サンテル、ジム・クレイマーらの所業を、仮借なく暴いて笑いのめしてきた。日本のテレビにどうしてこういう番組がなく、テもなくアベノミクスにやられてしまうのか。

 今、なぜ牧伸二亡きあとの「牧伸二」がいないのか。そのことを牧伸二本人が、一番口惜しく思っていたであろう。亡きがらは川面の上に浮かんだが、魂魄はまだ川底にあり、浮かばれないのではないか。彼の死後、自殺の原因は経済的な行き詰まりか、自分が会長を務める演芸人の会の預かり金の使い込みか、といった話題がメディアの続報では飛び交った。だが、これも情けない。そんな詮索より、エンタテインメント番組が全部、巨大プロダクションの仕切るものとなり、タレントは金太郎飴の顔ぶれ、いつも似たようなおちゃらけばかりといった、報道機関の息吹とは無縁な状態に陥ったところに、本当の原因を探るべきではないのか。明治民権運動の時代、民衆のなかで川上音二郎らは「オッペケペー歌」など、壮士演歌を創った。大正の初め、桂陸軍大将内閣が出現すると、憲政擁護運動の勢いが強まり、演歌師、添田唖蝉坊は「マックロ節」などで底辺大衆の怒りを表し、昭和の民衆に歌い継がれる演歌を定着させた。その流れのなかで戦後にもつづく石田一松の「ノンキ節」が生まれてラジオでも歌われ、さらにその遺伝子は、三木鶏郎によるNHK番組「日曜娯楽版」の数々の歌にも受け継がれていった。牧伸二も高度成長の中、そうした批評精神と風刺の技を、メディアのうえで発揮してきたのだ。メディアは、彼の冥福を祈ろうとするのなら、「3・11」と安倍改憲政権出現という、かつてない大きい政変のただ中、この時代に相応しい批評性と、“悪役”の骨の髄まで突き通す鋭い風刺を、みずからの武器として取り戻す必要があるのではないか。(終わり)