桂敬一/日本ジャーナリスト会議会員・元東大教授/メディアウォッチ(59) 戦争が終わった日の明るさを想像してみよう 12/05/27

kuruma

 

メディアウォッチ (59) 2012年5月27日

 

戦争が終わった日の明るさを想像してみよう

桂 敬一(日本ジャーナリスト会議会員・元東大教授)

 5月21日・月曜日。金環日食の朝。妻に起こされ、ベッドの頭側、東の窓に顔を向けた。レースのカーテンが少し開けてあった。ムラのある薄曇りの中空に鈍く光る太陽が、一瞬きらめいた。前を覆っていた厚い雲が通り過ぎたらしい。すると、寝ぼけまなこにぼやっとした光の輪が映ったような気がした。そのとき、鳴らしっぱなしのNHKラジオから、「本当に素晴らしいですね、国中みんなが一緒に、一つのことを喜び合うことができるなんて」と、感動を伝える女性アナウンサーの、やけに明るい大声が聞こえた。なにかいやな感じがした。もう寝てもいられない。居間に降り、テレビを点け、地デジ・BSの各チャンネルをつぎつぎに回した。みんな金環日食だった。テレビ東京だけがいつもどおりの番組をやっていて、その平常心に感心したが、ほかの局は全部、「一緒に、一つのことを喜び合」っていた、というより、大はしゃぎしていた。この日の新聞各紙夕刊の大騒ぎも、ご存じのとおり。朝日、毎日、読売をとっているが、どのページも似たような写真、見出しばかりで、ろくに読む気がしない。イヤーな感じは深まるばかり。

 そして翌22日は、東京スカイツリーの開業。テレビは朝から大騒ぎ。新聞はさすがに朝刊ではトップ・ニュースというわけにもいかず、再度、金環日食の余韻を競う風情をみせていた。しかし、朝刊段階でも手は抜けない。あちこちのページでぬかりなくスカイツリー前打ちの競演だ。毎日・読売は、「本日開業」のスカイツリーの天空高く聳える姿(前日撮影)に、通過時刻ごとに姿を変える金環日食のコマ撮り写真を噛ませた合成写真を作成、1面に載せて人目を惹いた。よくやった、というところだろうが、こういう努力を他のところでしてくれよ、といいたくなったのも確かだ。この日の夕刊は当然、1面から終面まで、派手なスカイツリー競争。それどころか、当日は時間が経つに連れ、あいにくの雨天となり、視界ゼロとなったため、話がいまいちみえなかったが、23日は対照的な好天気、絶好のスカイツリー日和とあって、大騒ぎは翌日にも持ち込された。翌日どころではない。テレビとなると、この1週間は連日、ニュースだけでなく、情報番組やバラエティ番組まで含めると、生で食べ、生干しでも賞味し、さらに焼いて食い、煮て食し、コマ切れやダシにしても味わいと、ゲップが出るほどのスカイツリーだった。

 なんでいやな感じがしたのか。南京陥落のときに満2歳、真珠湾攻撃・マレー沖海戦・シンガポール陥落のときは満6歳だった老人には、それなりの戦争体験がある。幼かったときに経験したこれらの出来事は大方、新聞・ラジオのうえでの体験だ。しかし、それらは暮らしのなかにも、ある種の非日常というべき祝祭空間をつくり出し、町のなかの提灯行列、映画館のニュース映画は、大きな興奮を幼子にもシェアさせていた。「国中みんなが一緒に、一つのことを喜び合うことができる」空間が出現していたのだ。新聞・ラジオは言説で戦勝を伝えるだけでなく、イギリスが誇る戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋艦レパルスの撃沈を祝い、新聞・通信社が一緒に「米英撃滅国民大会」を挙行した際は、その祝賀行事も大きく報じ、全国民の喜びをいやがうえにも煽ったものだ。心の高揚が感じられるいい時代だった。しかし、昭和20年8月15日がやってきた。満9歳の少年は、そのような喜びは、喜びであってはならない、と教わることになった。そうした記憶の底から金環日食、スカイツリーの喜びを伝えるメディアの騒ぎ方を眺めるとき、なんだ、新聞もテレビも、戦争のときとまるで同じじゃないか、としか老人には思えないのだ。

 話は変わる。最近のテレビは、みたいと思う番組が本当にない。家族がCATV経由のCS放送で映画をみていたりすると、ついつきあうことが多い。日食・スカイツリーに飽きた26日夜、日本映画専門チャンネルで、市川崑監督の映画、「億万長者」をみた。1954年の封切りだ。自由党政権の造船疑獄発覚。貧乏人の税金滞納者に容赦ない差し押さえ。原爆被害者がまだ放置されているのに、冷戦下の米ソ原水爆開発競争が激化。ビキニで第5福竜丸乗組員が核実験の降灰被曝。放射能汚染風評でマグロの売れ行き不振。このような世相を背景に、貧乏人を差し押さえに追いつめて悩む税務署吏員が、秘かにつくった悪徳脱税者リストを落とし、これを拾った検察が事件にし、大騒ぎになるとか、差し押さえを食らって窮した一家が、埋められた放射能マグロを食べて心中、その2階に間借りの女性科学者が原爆をつくり、爆発実験のスイッチをついに押すなど、ハチャメチャな話が交錯する。税務署吏員、一家心中生き残りの演劇青年の二人が爆発する原爆から逃げようと走り出す。二又の角でそれぞれ別方向に逃げ去る二人の青年。女性科学者は「第4の原爆の実現だ」と叫ぶ。ヒロシマ、ナガサキ、ビキニにつづくものの意味だろう。

 見終わって、これが本当の意味でのコメディとして成功しているのかどうかは、よくわからなかった。だが、作家・安部公房、漫画家・横山泰三、市川夫人で脚本家の和田夏十が、脚本共作の場で、どんなことを話し合っていたのかは、わかる気がする。映画をみる人たちに、日本がいまどんな時代にあるのかを気づかせ、なにが問題となるべきなのかを考えさせたいと、一生懸命議論したことを忍ばせるものがあるからだ。あぶなく聞き洩らすところだったが、「第4の原爆」という言葉は、いまなればこそ、いっそう鋭く、重く響く。そして思った。そこには同時代の切実さを感じさせ、考えさせるジャーナリズムがたっぷりあったと。1956年になると、「もはや戦後ではない」と述べる『経済白書』が出る。その3年後には、日米安保改定・高度経済成長の路線が浮上する。その直前、二人の青年の逃げるどちらの道が正解なのかが、まるでわからぬ混沌たる時代にあって、この映画の製作関係者は、喜劇というものの批評の力を信じ、映画をみてくれる人に自分で考えてもらいたいと望み、そのために役立つ作品をつくろうと努めた。彼らに感受性豊かなジャーナリストの面影をみるのは、間違いではなかろう。

 今度は話が戻る。太陽が金環日食になろうが、スカイツリー開業であろうが、どうしても原発が忘れられないという話だ。この点に関しては、原子力委員会が核燃料サイクルの報告案作成を、再処理計画推進派を集めた秘密会議で進めてきた事実を、毎日が5月24日朝刊でスクープ、25・26日でもその続報を展開してきたことを、大きく評価したい。原発事故をうまく片づけるだけではすまない。原発そのものをどうするかの結論が国民全体の納得のいくかたちでまとまらない限り、日本に「国中みんなが一緒に、一つのことを喜び合うことができる」状況など訪れるわけがないことを、この時期のこの毎日のスクープは、教えてくれる。実際、原発をめぐる、あのことは実はこうだった、あのときはそれはこうだった、という話ばかりがあまりにも多い。もちろん隠し事が明るみに引き出されるのはいい。だが、新たな隠し事もまた、原発ある限り増えつつあるのが実情だ。憂鬱きわまりない話だ。どうしたら、こんな際限もない暗鬱な状態、不信が渦巻く混迷から脱することができるのだろうか。こんな状態にケリをつけるにはどうしたらいいか。

 あの8月15日を迎えたとき満9歳だった老人は、灯火管制が不要になり、座敷の電球を煌々と点け、庭まで照らし出し、涼しい夜風を入れて一家が寝た、あの夏の晩の明るさ、安らぎを思い出す。空襲はもうないのだ。その明るさは昼間の暮らし全体にもつづくものだった。戦争がなくなることなど、まるで考えられなかった。だが、実際にはなくなってしまった。暮らしは変わり、いろいろな戸惑いが生じた。しかし、新しい変化には魅力もあった。いままでとは違うやり方ができる喜びがあった。原発もそうではないのか。思い切って全部止めることにしたら、それにつきまとっていたいろいろな面倒、疑心暗鬼、憎悪や対立、諦めや悲しみも消え、新しいやり方のなかに理解や協力・信頼感、一緒に新しいなにかを産み出す歓びを、人々がみつけるのではないか。なによりも安心と安全が大きな力になる。長いあいだ、戦争に勝つことが希望の証とされてきたが、それはあえなく潰え、その希望は虚妄だったことが明々白々となった。敗戦は最悪の絶望として迎えられた。だが、新しい希望を生んだという意味において、これもまた虚妄だった。絶望は虚妄だ。希望がそうであるように、と魯迅はいった。原発に象徴されてきた希望についても、それを失う未来を恐怖する絶望についても、同じことがいえるのではないか。(終わり)