桂敬一/日本ジャーナリスト会議会員・元東大教授/メディアウォッチ(58) 子どもを救え、仕事をつくり出せ―国は過去の経験に学べ 11/07/08

kuruma

 

メディアウォッチ (58) 2011年7月8日

 

子どもを救え、仕事をつくり出せ―国は過去の経験に学べ

 

桂 敬一(日本ジャーナリスト会議会員・元東大教授)

 

 

子どもが危ない!もう親の手には負えない

 ネットのなかでは、福島の被災地で住民やボランティアの市民から、「遊んでいる子どもが急に鼻血を出した」「学童のオシッコからセシウムが出た」というような報告がいくつも伝えられている。本当に子どもが危ないと思う。そのことは、被災地現場のお母さんがよく知っている。だから、文科省がそれまでの校内における学童の被曝許容線量の基準を年間1ミリシーベルトとしていたのを、急に20ミリシーベルトに引き上げたとき、福島の母親たちは猛然と怒った。いや、いわゆるホットスポットと称される、高い放射線量の検出される地区が柏・松戸など、福島以外の土地でもあちこちみつかりだしているため、日本中の親たちが文科省の態度に深刻な不信を抱く結果となった。

 それはそうだろう。年間20ミリシーベルトといったら、ドイツの原発労働者に適用されている許容限度で、それは日本でも同じだったのだが、福島第1原発事故が発生、復旧作業に携わる構内労働者が高い放射線を浴びねばならない状況が出来すると、その基準を政府は、50ミリシーベルトまで引き上げ、さらに5月末には、この限度さえ撤廃、事実上、天井知らずにしてしまった。そうした流れのなかで、毎日高い放射線量を浴びる危険にさらされる原発労働者に適用されてきた20ミリシーベルトが、学童への限度基準とされたのだ。お母さんたちは文科省に押しかけ、基準を元に戻せと抗議した。その勢いに押されて文科省は、福島の学童には従来どおりの限度設定で対応する、と約束した。しかし油断はならない。新基準そのものを撤廃するとはいっていないのだ。

 もっと恐ろしい話がその先にある。事態を憂慮した福島県は6月24日、15歳未満の子どもと妊婦の全員に、放射線量を計る線量計を配布することとし、県内市町村に購入費の全額を補助する、と発表した。一見いいことのようにみえる。たしかにいい面もある。というより、やむを得ない面がある。大人はそれを利用してわが身とわが子を守りたいに違いないからだ。だが、中学生以下の学童全員が毎日、線量計を携行、通学し、学校生活を送り、また外遊びをすることを考えてみよう。目にみえないまだら模様の形状で存在する高線量の場所を、いつも自分の持っている線量計でみつけ、そこを避けて行動しなければいけないのか。そんなことが可能だろうか。もしそうしないで知らないうちに強い放射線を浴びたら、それは自己責任ということにされてしまうのではないか。

学童の集団疎開をまじめに検討しなければならない

  育ち盛りの子どものからだは、大人よりずっと早い速度で細胞が分裂、増殖や交代を繰り返しており、その分、放射線によって傷つけられやすい。とくにからだのなかに蓄積された放射性物質が長期にわたって出しつづける放射線は、一定時間当たりの線量が低くても、累積線量は高くなり、臓器細胞を傷つけたり、思春期にさしかかる子どもについては生殖細胞の染色体を傷つけ、将来生まれる子どもにも障害をきたしたりするおそれがある。子どもが呼吸や飲食を通じて体内に取り込んでしまう放射性物質は、このような恐ろしい内部被曝をもたらす危険がある。その危険をから子どもたちを守るには、故障原発からの放射性物質の漏出を急いで完全に止め、それが実現するまでは放射性物質による汚染がつづく地域の子どもを、そこから引き離し、安全な地域に移してやることしかない。

 国は放射能汚染の危険区域を何段階かに分け、汚染程度が低いところは、そこを去るのも残るのも、本人の希望に任せるなどの方法をとっているが、実に無責任だ。汚染の連続性、累積線量の有害性、内部被曝の危険を考えたら、安全が確信できない限り、国の責任で退避と移住を指示すべきだ。とくに子どもについてはそうした措置を急ぐべきだ。親が仕事の都合や家財の保全・整理などで居住地に残ったり、不定期に帰宅する必要があるため、近くの地域にしか避難できなかったりする場合でも、成長期を過ぎた子どもや乳飲み子は別として、中学生以下の学童は、いってみれば学校ごと集団で安全な遠方の地域に疎開させるようなことを考えるべきだ。それは子どもたちに共通の安全を保障するだけでなく、集団性と生まれながらの共同体の記憶の共有をも保証する。やがて故郷の安全が確保され、分散していた住民の帰還が可能となった暁には、子どもたちこそ共同体全体のアイデンティティ再生の要となり、住民相互を結ぶ紐帯となるはずだ。

 そのことは急がれねばならない。敗色濃くなった1944年8月から翌年3月まで、国民学校(現在の小学校)3年の私は、東京から静岡市近郊のお寺に集団疎開させられた。その後、縁故疎開のため、お寺の級友と別れ、山梨にいき、家族と再会、そこで敗戦を迎えた。その間、父は東京で独居、戦後、兄姉が中学・女学校進学で父の下に順次帰っていったが、その後の父の失業で、山梨の新制中学で3年になっていた私は、1950年8月まで東京に戻れなかった。東京の中学では集団疎開で一緒だった級友の何人かと、6年ぶりに再会できた。しかし、あれほど元気で目立っていた女子のHさんは両親を空襲で亡くしていた。いつも穏やかだったTくんは家を焼かれ、まだ防空壕を直しただけの仮住まいに暮らす、暗い少年に変わっていた。それでも2人は、そのとき両親と一緒だったら、死んでいたかもしれない。集団疎開は最悪の不幸だけは回避したのだ。

国と自治体で生活費が支給できる仕事をつくり出せ

 福島原発事故は東日本の広大なエリアを、おそらくは数十年にも及ぶであろう長期低量被曝が人体にどのような影響を及ぼすかの実験場と化された観がある。人類史上、初めてのできごとだ。しかし、こちらばかりにかまけてもいられない。千葉・茨城から青森に至る太平洋沿岸部の津波の被害も、筆舌に尽くしがたいものがあり、それが湾岸市町村の家屋や就業場所の建築物を徹底的に流し去った空漠たる光景は、阪神淡路大震災の被害地でもみられなかったものだ。自衛隊・警察・消防・米軍は、犠牲者の遺体を探し出したあとは、大型重機を使って石もコンクリートも、鉄骨や屋根、車・大型家電などの金属類も、家の柱・梁、壁や床の木材も、そして多様なプラスチック製品や雑多な紙類も、全部一緒に破砕し、掻き集め、すくい上げ、平坦地の傍らに山積みにしていった。

 そのおかげで土台だけ残した街区のあらましが復元され、主な道路も整えられ、残された混沌たる状況のままの瓦礫の整理に当たる一般の作業者たちが、現場に入り込めるようになった。だが、昔の炭坑や炭住のまわりにあったボタ山のような巨大な瓦礫の山はまだいくつもそこに残され、最終処理を待っている。瓦礫とは本来は、石、固まった泥、コンクリートや瓦、漆喰などの破片の集まりを指す言葉で、無数の古材、木片や紙切れの混入を予定するものではない。ましてプラスチック類のゴミがはいっているなど論外だ。内陸部の地下水に触れる地層のなかとか、海水の浸透する海辺の土中に、それらを一緒くたに埋め立てることはできない。無機物である本来の瓦礫は埋められるが、木・紙は腐敗し、埋め立て地の安定を妨げつづける。金属・プラスチックもそうした不安定要因となるのに加えて、種類によっては有害な金属分子や化学物質を溶出する危険がある。それらを分別、木は薪に、金属やプラスチックはリサイクル原料にするなどの作業を経て、瓦礫は瓦礫となり、埋め立て地をみつけることができる。

 だれがそれをするか。1949年、緊急失業対策法制定によって失対事業(失業対策事業)が創出され、復員兵、引き揚げ者、戦争未亡人、成人に達しつつあった孤児などの失業者のための仕事が全国に生み出されていったことを、思い出す。空襲の被災都市には広大な焼け跡、多量の建造物の残骸が放置されていた。まずはその片づけ・整理が主な仕事だった。その後は道路補修、公共用地の整地、公園の清掃管理、下水整備など、高度な技術や建設機械の導入を必要としない公共事業を手がけていった。従業者は1958年には35万人に達した。1949年当時、その東京都での定額日給は240円だった(これが俗にニコヨンと呼ばれた)。だがそれは、当時の公務員の平均給与ベース(月)が6000円強程度だったのだから、低すぎはしなかった。これによって日本の社会は底が抜けるのを防ぐことができた。失対事業は70年代初めまでつづき、失業救済に大きな役割を果たした。国が主な財源を用意し、自治体が事業実施者となり、被災各地で瓦礫の仕分け整理・埋め立て、被災地整理を行う特別失業対策事業を起こすことが、今東北にも必要なのではないか。

昔の経験に新しい方法で命を吹き込み、今に生かす

  それは昔どおりのニコヨン復活などではない。スマトラ沖地震で津波に襲われたアチェや大地震に見舞われたハイチに駆けつけた国際的なNGOなどが提唱し、経験を積んできた救援プログラムに「Cash for Work (CFW)」と呼ばれる方式がある。家も仕事も失った被災民に当面、救済支援はするが、より長期的には復興活動に参加できる仕事を提供、みずから生活の資を稼いでもらう方法を採るのだ。その仕事が農業・漁業、建設、商業、医療・教育補助、公務など、特定業種・職種に関わるもので、復旧後にも必要とされるものならば、将来も自分の仕事としていくことができる。ボランティアの活動が注目され、なにかにつけボランティアの出番が期待されがちだ。ボランティアも、必ずしも無給の勤労奉仕を意味するものではない。しかし、やはり本人の支援に参加する志、自発性、意識の高さが求められる。これと比べると、CFWは、働けばカネ=キャッシュがもらえる仕事をつくり出す、という考え方がはっきりしているところに大きな特徴がある。

 仙台東部や三陸沿岸の被災地あとにそびえる瓦礫の山をみるとき、現地自治体は被災住民をこの方式で雇用し、彼(彼女)らがあえて異郷に職を求めにいかなくともすむようにしてやるべきではないか、と思う。さらに、阪神淡路大震災と比べ、立地上の制約もあり、ボランティアが格段に少ない状況を考慮すると、東北の日本海側3県、新潟や北関東・首都圏の仕事に恵まれない人たちや、被災県で研修生として働いていたが、帰国したままの中国人の若者たちをもこの方式でまず被災地に呼び込み、長期の仕事を提供、復興の進展とともに本人の希望に応じて、農林業・漁業、食品加工、商業、公務などの仕事に携われるようにしていくことも、可能なのではないかと考えられる。そうしてその土地に根付いた人たちを地域が住民として受け入れていくことは、今後急速に進む東北の人口減少を防ぐためにも役立つのではないか。

 実際、東北の人口減少がこのまま加速していけば、限界集落の消滅、耕作放棄地の増加、山林の荒廃・林業の不振、地場商工業の衰退、学校・医院など公共施設の統廃合など、多くのコミュニティの自立を損ねる、深刻な事態を招くことに帰結しかねない。そこに過剰な投資資金を手にした内外の大企業が金融大手と手を結んで乗り込んでくれば、彼らは山林、農地・耕作権、漁場・漁業権を買い漁り、それらの取引を投機の対象にしたり、株式会社方式で農漁業に直接進出したりして、独立して農業や漁業を営む住民を現場から駆逐、いってみれば全員を「小作人」のような存在に化してしまうおそれがある。東北が今後も、豊かな自然を生かし、多彩な農林業・漁業を発展させ、伝統文化を維持していこうとするのなら、そこに住むことを望むたくさんの人びとを、まず集めなければならない。

 60年代、高度経済成長の発展とともにエネルギー政策が転換され、石油の利用が奨励されるのにつれ、北海道、九州の炭坑は相次いで廃山に追い込まれ、たくさんの炭鉱労働者が職を失った。政府は炭坑離職者の再就職斡旋政策を推進、彼らは東京・大阪などの大都会の事業所を中心に、全国あちこちの企業・職場に仕事をみつけ、雇用されていった。東北ではこの逆をやり、ここで仕事をみつけ、住もうと思う全国の人たちを募り、受け入れていくプロジェクトを、政府は東北現地の自治体と協力して推進すべきではないか。中部・北関東・北海道などと並んで東北は敗戦後、高冷地に満州からの引き揚げ者など帰国農民を受け入れ、開拓地を提供してきた。入植した彼らは、高原野菜栽培、酪農などで成功、農業に新しい可能性を拓いてきた実績も残している。このようなチャレンジが再び行われれば、それは東北各地に新しい可能性をもたらすことになるのではないだろうか。
(終わり)