桂敬一/元東大教授・日本ジャーナリスト会議会員/メディアウォッチ(40)

マスコミ九条の会 年頭随想 正念場・2009年の「初夢」09/01/01


 

マスコミ九条の会 年頭随想 

正念場・2009年の「初夢」

桂 敬一(「メディアウォッチ」担当)

 

 

 昨年は、太平洋戦争開戦2年目で国民学校に入学し、敗戦のときは4年生だった自分と同学年の村木良彦(1月)、筑紫哲也(11月)が亡くなり、おまけに導きの星とも仰いできた加藤周一さんを失い、愕然とする年だった。身の周りから、自分の体温として分かち合ってきたぬくもりが一気に消失、自分の属する時代、そしてそこにあったメディアは、いったいどう変わるのか、それはまるごと失われてしまうのかと、しばし呆然たる思いに駆られもした。

 

 だが、そうしてもいられない。麻生のバカ総理は、アメリカ発の世界金融危機に悪乗りし、「全治3年の不況」(1973年、福田赳夫蔵相の発言の口マネ)だの、「100年に一度の経済危機」(昨年10月、グリーンスパン元FRB議長の米下院での証言のなかの「100年に一度の津波」発言の便乗借用)、などとほざき、景気対策を口実に総選挙を無定見に繰り延べ、政権維持だけが自己目的化した延命工作に埋没、自力では選挙がやれる状況づくりもできずに、政治的空白を生み出しつづけている。

 

 これに対してメディアもまた、世論調査で麻生政権不支持の実態を、数値では暴き出すものの、手のつけようのない政治的空白、脳死状態の政治をもてあますだけで、この状態を根底から覆すようなアジェンダ(議題)の設定ができないままに日を暮らしてきた。従来の政治部的政治報道では、政局をつくれるようなプレーヤーが、だれか動きださない限り、報じるものはないも同然だからだ。

 

 勢いテレビも新聞も、ニュース報道は、目先の変わった犯罪、事件が起きると、無闇に飛びつき、連日同じ話題を繰り返すような傾向を強めている。そうしたニュースは国民の関心を、真剣に日本の政治のあり方に向けねばならない時期であるにもかかわらず、物珍しさを追うただの好奇心に変えるだけに終わり、結果的に、政治的空白を放置している政府や政治家の不作為に荷担する事態を招いている。生き残ったものとして、こんな状態をいつまでも許しておくわけにはいかない。

 

 そもそも麻生の「全治3年」なる発言についても、福田元蔵相のマネと指摘したメディアはあったが、その発言における彼の問題認識は、福田元蔵相のそれと根本的に異なるものであるべきことを明確に把握し、的確に批判を加えた言説は見当たらなかった。「3年」が、危機によって生じた不況を乗り切る期間として示されたものとしては共通する。

 

 だが、73年当時の福田蔵相の場合は、石油ショックによって生じた狂乱物価、インフレを鎮めるために「総需要抑制」なる消費抑制策をうち出し、政策的にデフレ状態をつくり、その我慢は3年つづくとしたものだ。

 

 一方、今回の危機は、金融崩壊が実体経済に打撃を与え、企業の資金繰り悪化、雇用削減、内需の縮小、輸出不振など、即デフレ的停滞を結果するものだったため、取るべき経済政策は資金供給量の増加、需要拡大のための景気刺激策など、デフレ政策とはまったく逆方向のものとされたわけで、麻生がなにを思って福田元蔵相の口マネなどしたのか、意味不明のたわごととしか評しようがない。

 

 さらに「100年に一度」にいたっては、金融政策に責任を負ったグリーンスパンなりに反省の意味を込めて口にした節があるのだが、麻生はそのことをまったく理解できず、理解しようとする気もないのだから、なにをかいわんやだ。アメリカでも日本でも、今回の金融危機の恐ろしさを、1929年「大恐慌」の再来に喩える人が多い。

 

 だが、グリーンスパンが「100年に一度」と言った背後には、今回の危機が「大恐慌」の単なる循環的再来でなく、その後は、かつての経済的繁栄が復活、再現することも、もうない―資本主義の世界システムは今後すっかり変わる、とする含意が隠されているように思えてならない。

 

 私のこのような理解は、「100年に一度」、あるいは「1000年に一度」の「大津波」ともいうべき、敗戦=1945年の大変革を体験した記憶に、大きな根拠を持つ。それは日本にとって、幕末開港・明治政府成立にも匹敵する変化だった。

 

 政治的には天皇主権が国民主権に変わり、政治体制は真の民主主義を体現するものとなった。

 

 経済的には軍国主義にかしずく富国強兵政策が放擲され、国民の生活の豊かさに依拠する内需の成長育成政策と、それによって達成された高度な工業生産力を生かして平和貿易に徹する政策が、基本とされた。

 

 しかし、そうした経済政策の効果が認められるようになるのはようやく1960年代半ばであり、それまでは多くの国民に忍耐が求められた。だが、希望があった。財閥解体で産業・企業の民主化が進み、大小様々な企業が独立して活動、かつてなかった多様な産業構造を生み出し、多くの就業機会を創出した。

 

 農地解放は、富国強兵型資本主義では最終的な被収奪階層と長年なされてきた農民に、自立と自由をもたらし、農家の豊かさと経済の自主裁量の力を飛躍的に増大させた。また、農村は、生産力の向上に連れ、都市勤労者や工場労働者など、労働力の供給基地となり、産業の高度化を支えた。

 

 このような発展過程が軌道に乗る前、戦後復興期から50年代末期まで、都市部や工業地域では就業希望者の数に比べて仕事は圧倒的に少なかった。そのような状態が放置されれば、底辺部では労働の流動化が深刻な問題となり、定常雇用全体もつねに不安に脅かされつづける心配があった。そうした状況のなかで、事実上大きなセーフティネットの役割を果たしたのが、1949年に制定された緊急失業対策法であり、これに基づく、中央・地方の政府による、いわゆる「失対事業(しったいじぎょう)」の提供だった。

 

 これら道路清掃、道路・下水道・公園など公共施設の補修、建設・土木工事の補助作業などに従事する人々は、「ニコヨン」(日当240円からくる呼称)とやや見下されて呼ばれたが、全日自労(ぜんにちじろう。全日本自由労働組合)に組織された労働者たちだった。

 

 企業従業員の労組は会社組合で、成員は労働者意識より企業意識のほうが強かったりするが、全日自労は自由意思による個人加盟方式なので、実にしっかりした労組だった。

 

 60年代に入り、高度経済成長が軌道に乗りだすと、政府は失対事業の打ち切りを策したが、全国35万人の全日自労の組合員は結束してこれに反対した。また当時の労働ナショナルセンター、総評も、全国最低賃金制のない日本で、全日自労組合員の受け取る賃金がその役割を果たしていたし、その成員が失業保険(現在の雇用保険)、日雇い健康保険などの適用も受け、国の社会保障制度の最底辺を支えていたため、失対打ち切りに強力に反対した(1963年通常国会の自民党強行採決で緊急失対法失効)。

 

 当時、労働組合運動に携わっていた私も、全日自労の失対打ち切り反対運動に対する支援オルグに何度も参加した。カンパ活動の協力、激励などが主だった。高齢の方が多かったが、その日に焼けた、にこやかな顔に囲まれ、車座になって語り合ったとき、激励するどころか、こちらが激励され、この人たちの厳しいたたかいがあればこそ、ヤワな自分たちの労働運動も守られているのだ、と実感したのを思い出す。

 

 そしてそのときの光景を、派遣切り、会社寮からの追い出し、内定取り消し、正規従業員のリストラ・賃下げなどを連日伝えるメディアの報道に接するにつけ、あらためて思い出すのと同時に、今もまた緊急に必要なのは、現代の「失対事業」なのではないか、と考えるようになった。

 

 なにせ今は、一方には、日雇い派遣で荒稼ぎしたグッドウィルの廃業、フルキャストの撤退など、小泉流「構造改革」のなかでもてはやされた成長企業が、単なるあだ花だったことが露呈し、これらに依存して労働コストをけちり、大儲けしてきたトヨタ、パナソニック、キャノンらの大企業の道義的退廃も、白日の下にさらされているではないか。

 

 他方、無能・無節操の麻生政権は、2兆円もの税金を、選挙時の公明党・創価学会の票ほしさに、彼らの提案に迎合、定額給付金なるバラマキで使い捨てようとしている。そんな政府のカネがあるのなら、労働を私的な経済的資源としてのみ取り扱ってきたシステムが破綻した今日、労働を公共的資源として取り返すためにこそ、使うべきではないか。

 

 働けば、住んで食べていける最低の賃金は得られる。僅かな負担で継続的な雇用保障、医療給付など、社会保障のメリットも享受できる。そのような公的基準が確立されれば、それは企業世界が無視できない規範力も発揮する。新しい「失対事業」の出番だ。

 

 ここから先は想像力、思考の力の問題だ。21世紀の「失対事業」は、「100年に一度」の経済改革、ひいては政治的・社会的変革の中核に位置するものとならねばならないのだが、そうなり得るものと考えられるかどうかが、問題だ。私はその可能性は十分にあると考える。いや、そう想像することができる。これからの「失対事業」はもう高齢者中心のものではない。

 

 1949年、町には復員兵が溢れていた。戦争から帰った若者には仕事が回ってきたが、ドッジプラン、大量の行政整理、人員合理化の下では、高齢者の失業が大問題だった。だが、60年後の現在は、総労働人口の約35%が非正規雇用に放置される事態となり、若者・女性の直面する状況のほうがよほど深刻だ。

 

 しかし、見方を変えれば、高齢失業者対策は、人口学的にみれば、一定期間が過ぎれば不要となるものであるのに対して、若者・女性に対する失業対策、正確にいえば雇用対策は、全世代にまたがる雇用構造を長期に安定させる効果があり、入り口は臨時的な政策にみえるが、実際には、未来の労働制度に恒久的な社会的公正と安定性を付与する契機となるものといえるのだ。

 

 とにもかくにも、派遣切り、社員寮追い出し、内定取り消しの対象はほとんど若者だ。彼らは今、政府・自治体から「失対事業」を提供されたら、歓迎するはずだ。

 

 さらに想像力をめぐらせば、提供できる業種・業務の種類・内容は、60年前と比べたら大変わりするはずだ、と理解できる。かつては、現場労務者的な軽労働が「失対事業」の中身だった。当時の産業構造の単純さと水準の低さ、働く側の、旧制中学卒も数少ない、おしなべての低学歴、体力が低下してきた高齢者が多数を占めていたこと、などを考えれば、それはやむを得ないものだった。

 

 だが、現在は違う。高卒は当たり前、大卒も珍しくはない。若者は、体力は十分だ。労働者派遣法を改正、製造業の派遣利用禁止を再導入し、期間従業員は企業直接の雇用とし、ハローワーク(職安)経由の「失対事業」枠応募者は受け入れ可能とすれば、これまでの私的な派遣元企業、派遣先企業双方による、労働者にのみ過大な消耗を強いる雇用形態は消滅するはずだ。

 

 そこではまた、一定期間の継続雇用の後には、正規雇用への切り替え、正規従業員への登用が、企業に義務づけられるべきだろう。このようにすれば、日本全国どこででも、さまざまな企業と多様な能力、適性を備えた労働者との両者が、お互いにうまく出会う可能性を、格段に大きくもつことになるはずだ。そしてつぎに、これら通常の企業の雇用問題の範囲を超え、「失対事業」適用の範囲を拡大していくことが、21世紀的な「失対事業」の課題となる。

 

 現在、医療、看護、介護(療養介護、老人介護など)、障害者支援、ソーシャルワーカー、教育(学校教育、社会教育)などの非市場的事業分野は、財政的にも人的にも、危機に瀕している。市場的な方法では問題は解決できない。本来ならば、社会福祉・社会保障の制度の抜本的改革のなかで、すべてを包括的に解決していくべきだろう。だが、普通の人たちの生活、地域の暮らしのなかで今、日常的に起こっている問題は、その都度の解決を必要としている。

 

 さらに経済・産業全体を、エネルギーや資源を過大に消費するものから省エネ・省資源のものへと転換していく必要にも迫られている。これに伴って、環境保護、汚染・破壊を被った自然の復旧、景観保全、農業支援(農用地整備、農業労働援助)なども重要な事業領域となりつつある。労働意欲はあり、仕事に社会的意義が見出せれば、高い報酬や名声は得られなくても、喜んで働く若者はたくさんいる。

 

 ちょっとした訓練を受けて現場に入り、最初は補助的な労働に従事するが、働きながらさらに高度な訓練、専門的な教育を受けていけば、1人前の労働者、専門家になっていくことも可能だ。そして現代の若者にもっと期待できるのが、海外でのボランティアとしての活動だ。多くの若者が昔とは比べものにならないぐらい、海外経験を積んでいる。異文化との接触も苦にしない。

 

 そうした特質を生かし、彼(彼女)らを、ODAの実施に並行するなどして、教育・文化、衛生・医療、災害救助・復旧、戦争被害救助・平和復旧などの支援活動現場に送るのだ。彼(彼女)らはやがてりっぱな専門分野を担うボランティアに成長するだろう。

 

 最後に、とても重要なことだが、すでに日本に外国人労働者が多数定住し、この社会の血液となり、筋肉となって働く不可欠の労働者となっていることを想起する必要がある。この人たちこそ、最近の雇用情勢の悪化の影響を真っ先に、また最も厳しいかたちで受けていることを忘れてはいけない。

 

 21世紀日本の「失対事業」は、これらの労働者をも包含するものでなければならない。在日韓国・朝鮮人は60万人近い。在日の日系南米人も、ブラジル人だけで30万人おり、バブル期以降、急激に増加、今回の雇用危機から深刻な被害を蒙っている。また、政府は最近、インドネシアから看護師、介護士を移入、フィリピンからの移入も行う予定だ。

 

 さらに全国多数の大学で、中国からが圧倒的に多いが、就学生と呼ばれる、日本で学費・生活費を稼ぎながら勉強する留学生を、多数受け入れている。少数ではあるが、欧米の若者でも、日本語をしっかり習得、この国とゆかりのある仕事に就きたいと希望するものが増えている。

 

 こうした人たちを、不安定な伸縮を繰り返す労働市場のメカニズムにだけ任せて、放置しておくわけにはいかなくなっているのが、日本の直面している現実だ。そして、これらの人たちの希望を叶えてやり、その存在がこの国にしっかり根付けば、彼らは日本を、これまでとはまったく違うかたちで、世界に向かって開いていく重要な媒介者となるに違いないのだ。

 

 停滞と破綻への転落、なにもかもが滅茶苦茶になりかねない2009年の到来だが、実はそこに「100年に一度」のチャンスもあるのだ。そのチャンスを見抜き、逃さずにつかまえて生かすのは私たちの努めだが、メディアにはとくに、そうするための想像力を、たくましくめぐらせてもらいたいものだと、強く願う。

 

 私のこの「初夢」は、反貧困のスローガンの下、格差社会のつくり変えを目指して団結し、運動を着実に進めだした日本の若い人たちには、とくにリアリティをもって理解してもらえるのではないか、と期待している。私たち高齢者は、今やすべての希望を、あなた方に託している。

(終わり)