桂敬一/メディア論(4)/ いま、いったいなにがニュースなのか? 06/01/31


いま、いったいなにがニュースなのか?

「客観報道」とは、起こった「大事件」を、事実そのままに報じることだと、プロのジャーナリスト、メディア関係者は安易に信じ過ぎていやしないか。だから「9・11総選挙」で、実に簡単に「小泉劇場」に乗せられ、その大宣伝の片棒をかつがされる羽目に陥ったのではないか。だが、この経験に懲り、目を醒まさねばと、だれかが、どこかがやり方を変えてみようとするような動きの出てくる気配も、一向にない。

 それどころか、テキが「大事件」を仕立てると、ヨソがやるからウチもやらねばとばかりに、どこもが競争で突っ走り、メディアはまた易々とその手に乗せられ、「ライブドア大捜索劇場」が、「紀子様ご懐妊劇場」が、「3000万円偽メール劇場」が、つぎつぎとメディアのうえで演じられ、国民の興味関心を掻き立てていくことになる。しかし、本当の「大事件」はその空騒ぎの背後で起こっているのではないか。

 こうして毎日の新聞が、本当に読みでのないものになり、テレビもけたたましさだけが募るものとなっていく。これらを読んだりみたりしないほうが、ものごとをちゃんと考えていくことにつながるのではないか、と思ってしまうことさえある。

 

気になった「ムハンマド風刺画事件」

 最近私が気になっていることで、メディアが納得のいく報道・論評を伝えてくれない問題に、「ムハンマド風刺画事件」がある。

 これは最初、オランダの新聞が、イスラム教の予言者にして始祖であるムハンマド(日本ではマホメットといわれてきた人物)を、爆弾をターバン風に頭に巻き付けたテロリストとしてマンガに描き、イスラム世界に吹き荒れている自爆テロなど狂信的なテロ活動を風刺したものだ、と報じられた。これに対して、ヨーロッパのイスラム圏からの移民たちが、自分たちの宗教が侮辱されたと反発、彼らの抗議運動は暴力行為にまでエスカレートしていくこととなったが、表現の自由を暴力で脅かすことには承服できないとして、西欧圏の各国をはじめとし、アメリカも含む、いわゆる自由主義諸国のメディアがこのマンガを転載したり、類似の「風刺画」をつくって掲載したりし、表現の自由の擁護を主張する動きに出、そのため、イスラム教徒の怒りは、インドネシアなどアジアも含む世界的な規模に広がり、それに伴って暴動騒ぎも各地に広がっていく事態となった。

 

日本のメディアは、このニュースを伝えるのに、最初の問題となった「風刺画」などを、新聞紙上やテレビ画面のうえではっきりとは映らないように取り扱い、無用な刺激を及ぼさないように配慮を加えた。また、表現の自由は大事で、これに威圧を加えるようなことはあってはならない、とする原則的な態度を示す一方、表現者・メディアにも、異なる宗教や文化を尊重する思いやりを求めたいとする、主にバランスを重んじる見解を、どのメディアも示した。しかし、そこには、表現の自由はどこまで擁護されるべきものなのか、抗議行動を起こした側の行為は、本当に表現の自由を打倒しようとしたものなのか、といった原理に関わる点については、ほとんどなにもいっていないに等しいのが、日本のメディアの報道・論評だった。

もっとも、日本の新聞などが伝えた、海外の自由主義諸国の多くの政府の姿勢も、だいたいそんなものだったといえる。アナン国連事務総長の態度は、最初に問題を起こした側の自由主義諸国のメディアに対する批判を、やや強く示すものだったように感じられた。興味深いのはフランスだ。「ル・モンド」は、現実に起こった禍の根の深さを真剣に憂いはするものの、苦渋に満ちた表情のまま、宗教批判も表現の自由に含まれるものだとする原理の擁護に終始した。そして、パリ郊外のアラブ系移民の若者たちの「反乱」に理解を示し、彼らをそうした行動に走らせたサルコジ内相ら、政府の責任を批判したATTACフランスなどが、今度の事件ではまだほとんどなにもいっていないのも注目される。困惑がそれほど深いということだろう。

 

西欧的「表現の自由」の傲慢と落とし穴

 私には、オランダの当初の「風刺画」が、表現の自由の原理によって守られるに価するものだなどとは、とても思えない。これに抗議する人々が起こした暴動まがいの破壊行為には賛成できないが、彼らの行動を、ユダヤ・キリスト教系の宗教思想に育まれた自由主義諸国の新聞・メディアが、自分たちの表現の自由を侵すものだと非難するのは、筋違いの話であり、傲慢であるとも思う。

いったい風刺とはなにか。世俗の権力、政治権力に対する批判を根底に置くものではないか。宗教者の集団が政治権力の争奪戦に加わることはある。だったら、彼ら集団の行動の政治的意味に関する部分については風刺も自由であり、表現の自由が遠慮なく発揮されてしかるべきだろう。だが、その集団に所属する個々の信者が信ずる教義、信仰大系、信念をいたずらに揶揄し、侮蔑することは、ひとりひとりの内心の自由に基づく信仰や彼ら全体の宗教的世界を嘲笑し、信徒が聖なるものとみなすものに唾を吐きかけるに等しいのではないか。それが風刺といえるだろうか。

ムハンマドは宗教的権威であって、政治的権力者ではない。また、イスラム教徒は、ムハンマドの教えに従い、始祖そのものの偶像化もみずからに禁じている。西欧的表現の自由が、そこに不当に踏み込んで、彼らの信仰対象を偶像として描いてみせ、しかも風刺と称し、それを意識的に侮蔑で彩るとしたら、信仰心の厚い者ほど、そのような行為に対して大きな怒りを抱くのは当然ではないか。

 

日本国憲法における表現の自由(21条)は、その前に、19条=思想及び良心の自由(「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」)、20条=信教の自由(1項の前半は「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」)を置く。この構成に立てば、思想や良心の自由、信教の自由を踏みにじる表現の自由は、あり得ないものであるというべきだろう。表現の自由は、思想や良心の自由、信教の自由を守るために働く、だれにも妨害されない闊達な表現活動の自由として守られるべきものではないか。

 

村のはずれに小さなほこらがある。昔、行き倒れで亡くなった母子を祀ったものだ。言い伝えで村人が自分たちの守り神として信じてきており、人々が花や水、供物を捧げ、通りすがりには手を合わせている。これを迷信としてバカにし、小便をかけるようなことをしてもいいものか。キリスト教では聖母マリアも信仰の対象だ。キリストは処女のままのマリアから生まれたとされる。そんなバカな話はない―マリアも男と性交してキリストを懐妊したはずだと、そうした場面をマンガ、「風刺画」に仕立てて描いても、これも表現の自由だとして、世界のキリスト教徒は許すのだろうか。

私は、政治的意味をもたされることになる天皇制には反対だ。だが、日本の天皇は、神道の信仰大系の中心に位置づけられる存在でもある。そうした信仰対象となる天皇を崇拝する人たちの信仰心を揶揄するつもりは、毛頭ない。反対に、宗教団体としての創価学会の政治活動に、私たちはもっと政治的に批判を加え、その不公正をわかりやすく風刺してもいいのではないか―メディアはなぜそれができないのかと、不思議に思う。

 日本のメディアは、「ムハンマド風刺画事件」に関して、もっと踏み込んだニュースの視点を設定し、海外の自由主義諸国の新聞の動きなどについても批判的に報じ、日本人にもなにが問題なのかよくわかるように、多角的な論議を起こしていくべきではないか、という気がする。

(終わり)