桂敬一/元東大教授・日本ジャーナリスト会議会員/メディアウォッチ(31)/

国家主義・右傾化に執着するメディア ―しだいに露骨さ増す産経・読売の論調―

08/04/26


 

 

           国家主義・右傾化に執着するメディア

         ―しだいに露骨さ増す産経・読売の論調―

 

日本ジャーナリスト会議会員  桂  敬 一

 

 映画「靖国」の上映妨害に対しては、、さすがに全メディア挙げて、けしからんとする論陣を張った。表現の自由の根幹に関わる出来事であり、右翼の妨害が上映館に対する攻撃にまで発展するようなことがあれば、とんでもないというわけだ。自民党国会議員たちの騒ぎ、脅しの電話、街宣車の出動ぐらいでビビルなと、新聞は口を揃えて映画館を激励した。だが、待てよ、と私は思った。どこまで新聞はこれを我がこと、自分の報道・表現の自由にも関わる問題として受け止めているのか、いささか疑わしく感じたのだ。いい例が産経新聞だ。4月2日の「主張」(他紙の社説と同じ)は、「論議あるからこそ見たい」と題し、「抗議電話くらいで上映を中止するというのは、あまりにも情けないではないか」と映画館側を叱咤する。しかしその口で、自民党議連「伝統と創造の会」(会長・稲田朋美衆院議員)が「試写会を要求したのは、あくまで助成金の適否を検討するためで、税金の使い道を監視しなければならない国会議員として当然の行為である」「・・・政治的中立性が疑われる・・・不確かな写真を使った記録映画に、国民の税金が使われているとすれば問題である。文化庁には、助成金支出の適否について再検証を求めたい」というのだ。おかしいではないか。「助成金支出の適否」が問題なら、一般公開された映画を世間の人がみたあとでも、十分にできる。いや議論の環境としては、そのほうがより望ましい。そうした観点に立てば、事前に上映中止を招いた国会議員や右翼の行動をこそ、まず批判するのが筋だ。また、「支出の適否」も、わざわざ文化庁に検証させることではあるまい。映画をみた世間一般の人の声をこそ、聞くべきであろう。そもそも、この時点になれば、産経関係者も誰かしら、この映画をみているはずだ。みた結果、どう思ったのか。助成金支出にふさわしくない映画だったのかどうか、紙面ではっきりいったほうがいい。不適だとしたら、なぜなのか、その判断理由もしっかり示してもらいたい。

 

◆一見もっともに聞こえる読売の「表現の自由」擁護論

 こうした産経の語り口、やり口のインチキさは、簡単に底が割れるが、一見いうことがもっともなので、いいこといっているじゃないか、と受け取れる効果を残しつつ、実は、自分のいいたいこと、及ぼしたい影響力をしっかり浸透、増殖させていくやり方も、最近メディアが採りだしているので、注意を要する。同じ「靖国」上映中止に関して、読売は、社説(同じく4月2日)で、「『表現の自由』を守らねば」と題して、言論・表現の自由は「どのような政治的メッセージが含まれているにせよ、左右を問わず最大限に尊重されなければならない」と述べる。しかし、事前試写を求めた「稲田議員も、『私たちの行動が表現の自由に対する制限でないことを明らかにするためにも、上映を中止していただきたくない』としている」と、事実上の上映妨害効果をもたらした稲田議員の行為にも、そこに含まれていた考え方にも、正当性はあるとする議論を立て、加えて「かつて、ジャーナリストの櫻井よしこさんの講演が、『慰安婦』についての発言を問題視する団体の要求で中止になった」と、いわば左からの圧力もけしからんものだった、とぬかりなく示唆するのだ。しかし、国会議員を大量動員した妨害と右翼の電話・街宣車の脅迫による「靖国」上映中止と、神奈川・三浦商工会議所企画の新春経済講演会(1997年1月)の講師に櫻井氏を招くことが、社団法人神奈川人権センター(日高六郎理事長)の反対によって中止されたこととを同列に置くこの論法は、そもそも妥当なものであろうか。

 後者のケースは、当時、朝鮮人従軍慰安婦の強制連行はなかった、とする主張をさかんに繰り広げていた櫻井氏の言動を、人権センターが人権侵害につながる差別的なものだと批判、公的な場でそのような発言を行う人物を講師に招くことに反対したものだ。それは商工会議所に申し入れを行っただけで、本人に来るなと電話攻撃で脅しをかけるとか、街宣車で大騒ぎしたとかいうようなものではない。櫻井氏は前年も、横浜市教育委員会主催の講演会で「強制連行はなかった」の発言を行い、人権センターが抗議していた。人権センターとしては、表現の自由も無制限に許されるものではなく、人権を擁護する責任を伴い、差別などの人権侵害は許されない、とする考え方に立っていたが、それは道理ではないか。当時においては、櫻井氏の言論・表現の自由は、テレビ・キャスターとして、週刊誌などへの寄稿者として、引っ張りだこの講演者として、人権センターの関係者よりはるかに大きなものを享受、行使していた。そこで展開されている「強制連行はなかった」論に人権侵害を認め、抗議しようとする人権センター側の言論・表現の自由は、櫻井氏に比べたら実にささやかなものだった。横浜市教委、三浦商工会議所への抗議・反対の申し入れは、辛うじて手にできる彼らの自由だったのだ。

 

◆危ない「空気」をつくって自粛を増殖させるメディア

 読売は元来、「慰安婦の強制連行はなかった」派で、終始一貫、「なかった」論のキャンペーンに励んでいる。いい例が、2007年3月27日付朝刊に1面を費やして掲載した「基礎からわかる『慰安婦問題』」だ。従軍慰安婦は、公娼制度の「戦地版」で、みんなカネ目当ての商売女だった、とする論を延々と展開している。したがって、政府が1993年8月4日、「河野洋平官房長官談話」を発表、慰安婦問題に対する公式見解としたことは、返す返すも無念でならないといった思いを、しばしばさらけ出してきた。いってみれば、今回の社説も、「靖国」中止はいかんが、櫻井氏講演中止もいかんと、なんのことはない、この機会を利用して、年来の自分たちの主張宣伝に大きな機会を与えるべきだ、と抜け目なく、念押ししているわけだ。そして、社説は最後に、全国13の映画館が上映を予定と紹介したあと、「映画館は、不測の事態が起きぬように、警察とも緊密に連絡を取って対処してもらいたい」と結ぶが、この最後のひと言も、気に入らない。

 上映中止を翻し、やはり上映しようと、多くの映画館が勇気を取り戻せたのは、観衆となる全国の市民の応援で広範な映画関係者が奮起、脅しには屈せず、断固たたかうとする姿勢を鮮明に示したからではないか。メディアの多くもその動きに激励を送っている。このような状況が生まれてきたからには読売も、13の映画館に対して、危ないから警察に保護を求めて「不測の事態」に備えよ、などというのでなく、いまや上映の行方を国民全体が見守っている、あらゆる表現者が不当な妨害に反対している、なにも恐れず、多くの人がこの映画をみる機会に恵まれるよう、上映の先陣を務めてくれ―読売新聞も全力を挙げて応援する、というべきではなかったのか。そういわずに、まず真っ先に警察の保護を仰げなどというのは、言外に、お前たちは危ないことをやるのだから気を付けろ、ヘマしたら自分の責任だぞ、といっているようなものではないか。これでは、この社説を読むものに、やっぱり「靖国」は危ないんだ、興味はあるんだけれど、みにいって映画館に襲撃する連中がきたら、巻き添えになるかもしれないから止めておこう、と思わせるメッセージを送るようなものだ

 警察のことを口にするのなら、「警察は上映期間中、当該映画館の周辺警備を怠らず、これに対する襲撃はもちろん、外部での街宣車による騒音妨害、来館者へのいやがらせなども未然に防止、表現の自由と国民の知る権利の完全な擁護に努めよ」と述べるべきなのだ。そういう語り口をもたず、建前上は表現の自由の大切さをいうものの、その自由を自分も一緒になって本気で守る、とする姿勢を示さないのでは、市民は、そういうメディアを信頼できず、かといって自分ひとりでは自由に振る舞う自信もなく、とにかく安全第一、危ないこと、ヤバイところには近づかないのが一番、という空気が広がっていくだけだろう。いや、読売のこのような社説は、巧妙にそうした空気をつくり出し、本当の自由への接近を躊躇させる自粛を、市民のあいだに増殖させようとしているのではないか、と疑わせるところがある。4月18日付朝刊は、また1ページを費やして「基礎からわかる 映画『靖国』問題」を特集した。作品の内容、上映中止が起こった経過、上映の今後の展開の3点について詳細な考察を試みる。だが、「混乱が広がっている」「着地点は見えない」とする書き方に止まっており、やけに無機的な中立の姿勢を保つだけだ。ことは表現の自由に関する問題である。自分はこう考える、とする方向性を示さないのでは、どう考え、なにを理解しろというのか、読むものにとってまるで参考にならない。

 

◆立川・イラク反戦ビラ有罪判決を支持する産経・読売

 ある種の「空気」をつくり出すうえで見逃せないのが、立川の自衛隊官舎に対するイラク反戦ビラの配布を有罪とした最高裁の判決だ。ビラ配りは市民の表現の自由として認められている権利だが、これに対して生活の平穏の権利を妨げることは許されない―不法行為とみなす、とする判例ができたのだ。官舎構内立ち入り禁止・ビラ配りお断りの看板があるのに官舎内に立ち入り、ポストにビラの投げ込みをやったことそれ自体はすべて不法行為とはみなしていない。配達ピザ、不動産サービスなどのビラ、チラシは、受け取る側が平穏な生活を妨害されたとは思わないからだ。ところが、「ビラには、『殺すのも殺されるのも自衛官です』などと書いてあった。官舎に住む自衛官やその家族が読んだ時の精神的苦痛も決して軽くはないだろう。それを考えれば妥当な判決である」というのが読売の判決支持の言い分である(4月13日社説「一つのルールが示された」)。酷い話だ。ビラ配布の行為でなく、その内容が受け取ったものに精神的苦痛を与えるか否かで、有罪か無罪を決めるのが「妥当」であり、ルールにできる、というのだ。ビラの内容とは表現そのものではないか。これでは、配布前から受け取る相手の好き嫌いを考慮しなければ、ビラ配りもできないことになる。嫌なものは破棄すればすむことなのに、なんで表現全体の自由を束縛しなければならないのか。読売は、その矛先がいつの日か、自分に向かってくる危険を想像しないのか。産経「視点」(4月12日)はこの点をあえて無視、「判決はビラの内容は判断していない。裁かれたのは・・・(官舎)管理者の意思(立ち入り禁止の看板設置等)を無視した被告の立ち入り行為にすぎない」と強弁する。

 しかし、実際には「第一に、商業ビラも投函されていたのに刑事責任を問われていない。・・・第二に・・・被告らが敷地内にいたのは約三十分。静けさを害したとはいえないだろう。当時、宗教の勧誘をする部外者が居室前で面会を求めていた。・・・第三に、住宅管理者や居住者の意思を無視したのかどうか。ビラを配った一人は、居住者に抗議されてすぐビラを回収している。ビラに書いてある連絡先には防衛庁関係者から何の抗議もなかった」「被告らは七十五日間も拘置された。・・・目に余る強引な捜査ではないか」と北海道新聞の社説は指摘、「最高裁の判決は、微罪に乗じて言論を封殺することにつながらないか」と、真っ向から批判する(12日社説「危うさ残す最高裁判決」)。東京新聞「自由を萎縮させるな」(同前)、神奈川新聞「憲法の番人の役割放棄だ」(同前)も、同様の批判を最高裁判決に向けた。これらの原則的な地方紙と比べ、ある種の傾向の言論・表現行為は危ないんだ、とする国家機関による空気づくりに協力する読売・産経の物欲しげな姿勢は、恥ずべきものだ。

 

◆国家主義化・右傾化に打撃与える二つの判決に対する敵意

 中国・韓国・朝鮮の「反日」に対する敵意をむき出しにするものには共通性がある。教育現場における日の丸・君が代強制への賛成、「従軍慰安婦強制連行はなかった」の主張、首相の靖国参拝支持などだ。そして彼らは、沖縄の住民に集団自決を強制した「軍の命令」はなかった、の主張にも固執してきた。さらにイラク戦争における米軍への自衛隊支援にも賛成だ。そこには戦争への道につながる改憲を待望、日本の国家主義化と政治の右傾化を歓迎する心性がみなぎっている。上記にみるような読売と産経は、そうした輿望に応えてきたわけだ。だが、3月28日の大阪地裁における大江健三郎「沖縄ノート」裁判(沖縄集団自決訴訟)の判決は、大江被告勝訴の判断を示し、「軍の命令」はなかったと訴える原告が敗訴した。また、4月17日には名古屋高裁が、戦闘地域=バグダッドに「武装兵員」を輸送する航空自衛隊の輸送活動は、憲法9条の禁じる戦闘行動を含み、違憲であるとの判断を示し、憲法判断では原告・市民側が勝ち、被告・政府が負けた(メインの損害賠償等では政府勝訴)。この二つの裁判の勝利は、歴史認識・教科書問題への波及、当面のイラク戦争への荷担の清算、在日米軍再編・日米軍事一体化の再検討、9条護憲の運動強化など、多くの重要な問題・運動の行方に大きな影響を及ぼし、国家主義化・右傾化に待ったをかける重要な意味をもつものとなった。

 それだけに、産経・読売の反発も激しい。集団自決訴訟判決について産経「主張」(4月18日)は、「論点ぼかした問題判決だ」と、原告側が関係隊長を特定、同人による命令はなかったとした証言・証拠に対してはその有無を判断していない、と疑問を呈し、審理不十分だと批判する。読売も「『軍命令』は認定されなかった」(同日社説)と、特定軍人の命令は事実として認定していない、と批判した。だが判決は、戦争と軍のシステム全体を捉え、その全体が「軍の命令」を実現していると判断しているのであって、これを覆せる反証は、両紙とも示すことができない。イラク空自違憲判決に至っては、もう理屈ではない。産経・主張「平和協力を否定するのか」、読売・社説「兵輸送は武力行使ではない」(どちらも4月18日)は、かつて小泉首相が国会答弁で、「どこからどこまでが戦闘地域で、どこからがそうじゃないなんて、私にわかるわけがないじゃないですか。わかっているのは、自衛隊は戦闘地域には送らないのだから、自衛隊のいるところは戦闘地域じゃない、ということです」を、まざまざと思い出させる体の議論だ。逆に言い換えれば、二つの判決は、こういう無茶苦茶な議論を国民の前にさらけ出させただけでも、大きな意味がある、といえる。

 

 4月8日の読売朝刊1面は、憲法に関する全国世論調査の結果を発表した。憲法改正「反対」43・1%、「賛成」42・5%。1981年から始まったこの調査は、93年以降、一貫して「賛成」が「反対」を上回ってきたが、その関係が15年ぶりに逆転したわけだ。とくに9条については、改正「賛成」は30・7%に止まり、「反対」(解釈・運用で現状維持=36・2%、9条厳守=23・9%)は、6割を超えたのだった。9条1項(戦争放棄)維持は81.6%に達し、同2項(戦力不保持・交戦権不使用)も改正不要が54・5%と、過半数を超えていた。改憲推進新聞・読売のこの調査は、改憲「賛成」の回答数値が、他紙と比べて突出して多いのが、これまでの傾向だった。この結果は、読売自身にとっても驚きだったに違いない。そこで社説はこの変化に関して分析を試みた(4月8日「改正論を冷やす政治の混迷」)。しかし、「最大の要因は、国会や各政党の憲法論議の沈滞にあるだろう」「先の臨時国会では、インド洋での海上自衛隊の給油活動再開や、自衛隊の国際貢献のあり方が焦点になった。だが、前防衛次官の汚職事件や、海自の燃料の対イラク作戦転用問題などが重なり、憲法論議が深まらなかった」「安全保障や環境問題など、さまざまな観点からの憲法を議論しあうことが求められている」が結論では、分析の核心はずれているのではないか、と思わざるを得ない。

 小泉・安部内閣の暴走、そのあげくの安倍政権自滅、その咎として出てきた、岩国市長選への国の介入(米艦載機移転反対派候補落としのために既定の補助金まで打ち切り)、沖縄・少女暴行事件、イージス艦「あたご」漁船衝突事故、横須賀・米兵タクシー運転手殺害事件などが続発したことも、大きく影響しているのではないか。一方で、全国に各種の「九条の会」など、さまざまな反戦・護憲の組織が多数生まれ、運動を急速に広げてきたことも、無関係ではあるまい。メディアは、このような現実の動きを真正面から見据えないと、日本の針路選択を過つことになるおそれがある。

(終わり)