桂敬一/元東大教授・日本ジャーナリスト会議会員/メディアウォッチ(30)/

沖縄・米兵少女暴行事件はどこにいったのか  ―時代の危機乗り越えるジャーナリズムへの期待―08/03/29

 

 

 沖縄・米兵少女暴行事件はどこにいったのか     

      ―時代の危機乗り越えるジャーナリズムへの期待―

 

                               

桂  敬 一 (元東京大学教授・日本ジャーナリスト会議会員)

 

 沖縄・米兵少女暴行事件は、被害少女の側の告訴取り下げで、加害者米兵は釈放され、刑事事件としては立件できなかった。しかし、それでなにもかも終わったということではなかろう。依然米軍基地はあり、類似事件は続発している。これを裁くべき日本の司法の手が届かない状況も、なにも変わっていない。だが、少女暴行の事件報道が成り立たなくなると、新聞・テレビの扱いは潮が引くように低調となった。

 

 だが、3月7日、東京・福生で横田基地の米兵が酒酔い運転で事故を起こした。12日には青森で、昨年10月に三沢基地の米兵が飲酒運転でひき逃げ事件を起こしていた事実が判明したが、地元警察は書類送検したものの、米兵の身柄確保はできず、捜査は米軍側の協力頼みとなるだけ。1週間も経たないうちに関連ニュースは出なくなった。さらに19日、横須賀でタクシー運転手が刺し殺されたが、車内には米兵のクレジット・カードが残されていた。米軍は脱走兵としてこの兵士を捜索中で、日本の警察より先に彼を発見、基地内に収容した。これでまた、警察の捜査は壁にぶつかった。

 

 こういう状況のなか、沖縄では、少女暴行事件が起こり、県民の怒りが噴出した当初に決めた予定どおり、「米兵によるあらゆる事件・事故に抗議する県民大会」が23日、事件のあった北谷(ちゃたん)町で開催され、雨にもかかわらず、6000人が集まった。だが、本土ではテレビがこれを大きく報じた気配がなく、新聞の報道も、後述するとおり、さほど大きくはなかった。不満が残るのは、基地がある限り米軍による犯罪・事故はなくならず、事件が起こったら起こったで、この国はアメリカからもろ植民地扱いされるのに、そうした本質的な問題を厳しく追及する視点が、沖縄のメディアを除いて、どのメディアの報道においても、著しく欠けている点である。とくに全国紙にその傾向が顕著だ。

 

◆沖縄少女暴行事件はどこにいった―全国紙の納得いかない報道

 

 朝日新聞はまだよかった。24日の朝刊第1面と社会面のトップは案の定、前日茨城・土浦のJR荒川沖駅で起こった、若者による不可解な8人殺傷事件の、大きな記事となった。他紙もほとんど同じだ。だが、第2社会面の頭は、「タクシー殺人 神奈川県警 脱走兵の聴取打診 米軍『捜査に協力』」の記事と、集会写真入りの「沖縄県民大会6000人抗議 米兵事件やまず『基地縮小を』」の記事が並んで掲載されていた。どちらもそれほど大きな記事ではないのに不満が感じられるが、二つの出来事が同一の根から生じているものであることを、読者に考えさせる工夫は施されていた。

 

一方、同日の毎日・朝刊は2面に、「沖縄 米兵事件 抗議大会に6000人 公明、10市町村首長も」の記事を、やはり集会写真入りで掲載した。その政治的意味に着目しての2面掲載であり、これに噛ませるかたちで、「地位協定見直し論も 地元要請受け、与党にも機運」の記事も掲げた。だが、地位協定見直し論は類似事件が起こるたびに出てきた議論であり、1995年の少女暴行事件のときは犯罪のあまりのむごさに、協定の運用改善の約束を米軍側から多少引き出せたものの、それは犯罪の予防には何も役に立っていないのが実情だ。

 

 酷いのが読売、日経。読売は、社会面トップの「8人殺傷事件 『捕まえてごらん』 前日、110番で挑発」とする、容疑者の異常性をクローズアップ、猟奇性を煽る感じの大々的な記事の左下に、「米兵事件続発で沖縄県民大会」(1段2つ折り見出し)のあとの、わずか12行の記事のみ。しかも、その上には、「タクシー運転手殺害 米兵拘束は『脱走兵として』 米軍『捜査に全面協力』」の4段見出しを付けた8段の記事が置かれていたのだ。これだと、県民大会が少女暴行事件が発端だったことを思い出させることはできず、今度の横須賀の事件では米軍も協力するのではないか、とする印象さえ与えかねない。

 

 日経にいたっては、「8人殺傷事件」を1面で小さな扱いにしたのは見識といえるが、代わって1面トップは、「李明博・韓国大統領が会見 環境・FTA 日韓中で推進 天皇訪韓『よい時期に』」ときたものだ。日韓英中の経済4紙の共同会見で、日本では日経独占ということによる、まるでスクープ扱い。しかもこの関係記事が、2・3・6面にも掲載されている。しかし、これがいま大ニュースであるとは、記事を読む限り、とてもいえない。この材料は、高い批評能力を持った記者が論評記事を書くために生かしたほうがいいのに、急いでニュース面で報じた記事は、単純・平板なものばかり。そして、1面で大きく目についたのが、「朝刊4月に刷新 景気と家計を読みやすく ネットと連動」などの社告。自社新ビジネス優先がいかにも日経らしい。そして「沖縄県民大会」は紙面のどこにも見当たらなかった。いまでも見落としではないかと不安だが、何度みても紙面にない。一方、「米海軍司令官 『要請あれば全面協力』 タクシー殺人 県警、聴取を打診」の記事は、やはり「8人殺傷事件」の脇だが、紙面3分の1の幅、7段の大きな記事。記者会見するジェームズ・ケリー司令官らの写真まで丁寧に添えていた。

 

◆読者の高い問題意識をもっと朝日は生かせないのか

 

 岩国市長選、沖縄少女暴行事件、海自イージス艦衝突事故、横須賀タクシー殺人事件、沖縄県民大会という流れを思い返しながら新聞を読むうちに、現在の日本が直面している重大な危機に思いをいたす読者なら、日本という国がぼろぼろ壊れだしているのに、新聞・テレビがそれを真剣に追跡せず、ましてや危機に宿されている中核的な問題に、勇気をもって切り込もうとしないことに、苛立ちと不満、さらに不信を強めているのではないか、と思えてならない。それは、在日米軍基地、米兵犯罪、地位協定、日米軍事一体化など、日米安全保障に関する問題についてだけのことではない。格差社会、社会保障・福祉 教育、環境、人権、社会の安全など、国と社会・生活の全体的な崩落が進むのに連れて生じている、あらゆる問題をめぐって、私たち国民に、なぜメディアはもっとはっきりものをいわないのか、問題を隈なく解明し、思い切った解決策を示さないのか、とする疑問を感じさせるようになっている。

 

 手近なところから証拠をあげてみよう。朝日・3月24日朝刊の投書欄「声」に、つぎのような投書が載っていた。
 「感動の卒業式損なう人残念」。養護学校の卒業式に列席した福祉施設職員が、「教育委員会」の腕章をした人たちが式で国歌斉唱を「強制」していたのを批判。  「後始末させぬ警官には失望」。マンション・エントランスに入り込んで騒ぎ、ゴミで汚す若者を注意せず、ことなかれで当たるだけの警官に対する不満と疑問。  「折り込み広報おざなりでは」。新聞折り込みだけで「後期高齢者医療制度のお知らせ」をすませてしまう政府広報のやり方に対する抗議。

 

 「公的年金から天引き不合理」。介護保険料、高年者医療保険料・国民保険料などの天引きを、法が禁じている公的年金の担保・差し押さえに抵触するとみる問題提起。

 

 翌25日の同欄にも、「国民が苦しむ政治の未成熟」(国会予算委員会のテレビを見つづけたうえでの政治批判)、「違憲の式休み 今なら免職か」(高齢元教員の職業生活の回顧)、「発達障害者を地域で支えて」(自閉症・アスペルガー症候群の子をもつ父の実名での体験)など、現代日本社会の病を痛切に考えさせる投書がみられた。

 

 これらの投書が示す朝日の読者の現実を直視する目は鋭く、問題意識の水準は高い。なまなかな記事よりよほど重たいインパクトを、読むものに感じさせる。朝日はいい読者をもったものだ。それは、沖縄県民大会ニュースの記事比較にみられるような努力を、朝日自身がまだつづけており、いまの時代と状況に危機感を募らせる読者が、朝日に期待を寄せるからこそ、みずから名乗り出て、声もあげてくれている、ということであろう。だから思うのだ、もっと朝日は大胆に、また簡明率直に、これら読者の期待に応えていかないのかと。中途半端では、やがて読者の期待は幻滅と失望に変わる。

 

◆読者の問題意識を眠らせる読売のポピュリズム

 

 朝日の読者と対照的なのが、読売の読者だ。これも証拠を示して考察してみよう。  同じ3月24日朝刊の投書欄「気流」にはこのような投書が掲載されていた。  「公共施設名称 造語を止めて」(フランス語そのままの「ピリエ(柱)」や「友有り」をもじったカタカナ語「トモリエ」を市が候補に推す)、「心を和ませる花 通行人と話弾む」(この見出しどおりの短文)、「セリやツクシで旬を味わう幸せ」(同)。また、この日(月曜)はコーナー「若者ひろば」が併設されており、そこに10・20歳代の若者の投書3通が収められてあった。「卒業式で『最高学年』自覚」「『偏見は無知から』知った奉仕」「自分でも出来る環境保護」。いずれも自分が体験した出来事の挿話的な紹介だ。

 

 翌25日の投書もみておこう。「昔の歌を知らぬ寂しさ」(卒業式の「蛍の光」を知らない生徒たち)、「90歳男性手作り 味豊かなみそ汁」(妻に先立たれた男性の心豊かな暮らしぶり)、「災害時の対応を家族と決めたい」(災害発生時に落ち合う場所)、「メールに頼らずきちんと言葉で」(お礼はメールでなく電話で)、「高齢運転者標識 デザインを変えて」(枯れた落ち葉が車に付いたような標識は変えよ)、「寝台車での出張 懐かしい思いで」(最期の寝台列車「銀河」の昔の思い出)。

 

 いまの時代、これらの投書を新聞が紙面に載せるどんな意味があるのか、正直なところ、まるで理解できない。そこには、政治・経済・社会などの問題や時代状況についての問題意識がかけらもない。

代わって、身近な生活のなかで小さな幸せを噛みしめる庶民の姿への共感、素朴な善行や他人への思いやりを尊ぶ価値観の支持など、ある種の道徳主義がふんだんに散見できる。政治的・社会的問題意識という次元でみたら、その水準は低いが、それは読売読者自体の問題であるより、読売というメディアが、自紙読者のこのようなあり方・価値観を、好んで紙面に表出しているということなのだと思う。

 

 もし読者がこれに馴れ、自分の文章が紙面に載ることに喜びを感じ、多くの読者が投書採用の機会を最大化するコツを、だんだん身につけるようになると、読売流のポピュリズムが成功することになる。それは、かつて渡辺恒雄氏が、政府に批判的な朝日の言論を、無責任な大衆扇動―「ポピュリズム」だと非難したのとは異なるものだ。大衆を、大きな政治・経済・社会の動乱とは縁遠い、身近な日常生活のなかの道徳世界に安住させ、遠い世界の出来事は新聞が伝えるとおりなのだと信じ込ませるポピュリズムだ。

 

◆不幸になっても本当のことを知るか、幸せでいられるなら無知がいいか

 

 日経にいたっては読者を、日常の報道・論評のパートナー、協力者として考える気遣いはまったくない。そもそも投書欄がない。経済紙といっても、財界やビジネスマンの実用的な利益追求に役立つ経済・利殖情報を提供するのが最大の眼目だ。また、そうした実用経済情報・データを最近は、自己責任で利殖を図り、経済リスクを回避しようとする一般勤労者や消費者にも販売しようと努めだしている。いわば客層の拡大だ。そこに意識される読者は、有用情報の買い手としての「客」であるにすぎない。日経は経済紙といっても、経世済民の経済ジャーナリズムはもはやほとんどない。事業的成功が日経をそこまで傲慢にさせ、その眼中には、苦しむ大衆の姿はない。だが、新聞が大衆と無縁でいられることは絶対にない。やがて日経は痛烈なしっぺ返しを受けることになるだろう。
 毎日は、ときには朝日より激しく、政治・経済の矛盾や時代の危機に挑んでいく姿勢を示し、健闘している。また、「記者の目」など、読者に率直に呼びかける紙面づくりは、読者の問題意識に真正面から応える点で、大きな役割を果たしている。だが、いま読者が市民として向き合うことになっている危機の実相は、さらに深刻さの度合いを増しつつあり、読者が漠然と感じている危機の原因を、より早く、また的確に探り当て、それを臆せず読者に示していく新聞の役割は、ますます重要なものとなっている。読者のパートナーシップとの緊密化を図り、その役割を十分に果たしていくことが、求められている。

 

 茨城の「8人殺傷事件」の不可解な恐怖が日本中に浸透しつつあるさなか、岡山駅で25日夜、大阪からきた18歳の少年がホームの乗車待ちの男性を進入中の列車の前に突き落とし、死亡させた。これも動機なき殺人だ。この大きな記事をみながら、「8人殺傷事件」が引き金になり、突き落とし事件につながったのではないか―メディアの報道にも責任があるのではないか、という気がしてならなかった。これでまた米兵士の犯罪も、メディアの関心、人々の問題意識から、遠くなっていくのではないかとも思った。

 

 自分の不幸や、アイデンティティの喪失が、なにを原因に生じているのか、探り当てられない人たちが増えている。自傷・自殺の衝動が膨らみ、実際に自分を傷つけ、自死に走る人が多くなっている。だが、その衝動が他に向かい、人を傷つけ、殺人に至り、それによって自己を崩壊させるものも、多くなっている。なまじ余計なことを知って不幸になるより、知らないで幸せでいるほうがいいという、控えめな生き方さえ、許されなくなってきたのだ。このような状況にうち克つには、たとえ不幸になっても、だまされているのは嫌だ―苦しくても、いつも本当のことを知っていたい、という生き方を身につけなければならない。それでなくてはもうやっていけない。

 

 そのような生き方を志す人たちにつねに本当のことを知らせ、正当な自愛と自尊を回復していく手伝いができるジャーナリズムの出現が、いま待ち望まれている。(了)

 

 

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