桂敬一/元東大教授・日本ジャーナリスト会議会員/メディアウォッチ(28)/NHK記者インサイダー株取引問題のなにが問題か ―新聞は同僚を激励し、危機からの脱出を助けよ― 08/01/24

 NHK記者インサイダー株取引問題のなにが問題か
   ―新聞は同僚を激励し、危機からの脱出を助けよ―

                 桂  敬 一
   (元東京大学教授・ 日本ジャーナリスト会議会員 )

 NHKは、記者3人によるインサイダー取引で、いまや重篤に陥りかねない状態にある。私は、臆病なせいか、こんな状態を放っておけば、NHKひとりが存亡の危機を迎えるだけでなく、なんのかのいってもこれまで日本のジャーナリズムを担ってきたマスメディア全体が、権力の抑圧、資本の好餌の対象として構造的に取り込まれることになる、取り返しのつかない危機に見舞われるのではないか、とおそれる。新聞も、民間放送も、NHKはしょうがない、NHKだからなと、どこか自分には関わりのないところでの話のように問題を眺め、論評を加えている感じだが、果たしてそれでいいのだろうか。朝日のこの一件に関する報道・論評を中心に、具体的に考察を加えてみたい。

◆恐れ入った1月19日の朝日「天声人語」のNHK批判

 記者3人が自分のところのニュースの、せこい情報価値に目をつけ、小狡く立ち回り、ひとりずつでいうと、10万、40万、50万の利益をそれぞれ手にする株の取引に走った。情けない話だ。いってみれば、はしたガネではないか。報道人であれば、ニュースの価値に関心を抱くということは、そんな次元の話ではないはずだ。この点でNHKがいくら責められても、弁護の余地はない。しかし、もうひとつの問題は、なぜNHKでこんなことが起こったのかだ。この場合、問題を起こした当人たちの自己責任が厳しく問われなければならない。彼らは報道倫理を身につけているべき職業人だからだ。だが、報道機関としてのNHKもまた、このような記者の存在、あるいは彼らの非行の生じる状況をなぜ許してきたのか、組織としての自己責任を問われざるを得ない。

 これらの問題点を明確にし、NHKの批判さるべき点は厳しく指摘し、明らかになった欠陥や問題をどう克服すべきか、できるだけ具体的に課題を示し、それらとの取り組み、問題の解決を迫るのが、同僚報道メディアの友情ある批判と説得であろう。しかし、1月19日の朝日・朝刊をみると、NHK問題に触れた紙面にそんな雰囲気はまるでなく、救いようのない穢れたものを見下し、冷たく突っ放すトーンに貫かれているので、驚くとともに、ぞっとするほどの気味悪さを感じさせられた。

 1面の「天声人語」は、「老舗の和菓子屋が、湯気の立つ饅頭を店に出す。よく見たらネズミの歯形が二つ三つ」「約5千人の職員が放送前のニュースを読めるというから、3人だけか、その日だけかと疑うのが普通だ。津々浦々、ネズミが端末にかじりつき、私服を肥やす図を思う」「不心得者の給料、特ダネの取材費、のぞき見を許すシステム。いずれも私たちの受信料が賄う」「特権を悪用する組織の取材に、真実を語るものはいない。弱り目にたたり目で、政治からの圧力が増すかもしれぬ」。強烈なたとえで、受信料を払う「私たち」の、けしからんNHKに対する嫌悪と蔑視の情を、申し分なく煽る。とってつけたように「まっとうな職員も本気で怒り、再発防止の知恵を出し合う時だ」「自戒を込めておさらいすれば、権力者にスキを見せ、大衆の不信を買い、報道機関は徐々に死んでゆく」というが、何度読み直しても、NHKは、もうそのものがなくなったほうがいい、としか感じさせない文だ。とくに最後の「死んでゆく」は、不信を買うならば死んでいくことになるだろう、の意味でなく、もうすでに死につつある、と解せる書き方になっていて、その主語が「報道機関」全体なのか、NHKだけなのかも不明だ。なんとも投げやりで、不気味だ。書き手だけが賢くあれば、ほかはもう、関係ねえ、ということか。

 この「天声人語」を気持ち悪く思ったのは、私ひとりではなかった。22日の投書欄「声」に、私が抱いたのと同じような感想を述べる読者がいた。

◆なぜこんな無自覚、未熟、稚拙さが放置されてきたのか

 朝日・19日の社説、「株の不正取引 NHK記者のやることか」も、「不正に手を染めていたのは3人にとどまらないのではないか」「NHKはすべての職員を調べて、結果を公表するというが、おざなりの調査で済ませてはいけない」「新聞やテレビの記者は、様々な企業情報に接する。職業倫理としては、株取引を一切しないというのが筋だろう」「とりわけ公共放送の・・・NHK職員になれば、株取引はできない。それぐらいの覚悟を持ってもらいたい」「唯一の公共放送としてライバルのいない甘えがありはしないか。厳しい競争なしに受信料が入る制度に安住してはいないか」の批判の仕方も、NHKだけが問題児であるかのような調子に貫かれている。それも一部の不心得者の問題でなく、NHKのあり方がまるごと問題なのだ、といわんばかりの調子だ。

 この社説は、06年、日経の広告局員がインサイダー取引で逮捕されたことを指摘したうえで、「記者がかかわるのは初めてである」というが、それは、92年に証取委=証券取引等監視委員会が創設されてからの話のはずだ。証取委は、バブル末期とその崩壊が交錯する時点、91年にいわゆる証券・金融不祥事が生じたのをきっかけに、アメリカのSEC=証券取引委員会に倣ってつくられた組織だが、それ以前の放埒な株取引は、少なからぬ新聞記者、とくに相場記者を巻き込んでいたのが実情だ。したがって、新聞社は絶えず、相場記者に対して「手張り」をやってはいけないと、繰り返しいってこなければならなかった。証券会社のセールスマンは、いい情報があれば、それを携えて顧客に株の売買を勧め、損はさせず、利益の最大化をはかるのが本務だ。だが、確実に大きく儲かる話をみつけた彼らが、自己資金で当該株の取引をこっそり行い、利益をわがものにすることを「手張り」という。これが転じて、新聞記者、新聞関係者の類似行為にも用いられ、内規などで禁じられてきたのだ。もちろん、あそこの新聞社では記者や広告関係者がおいしい話は先に独り占めし、紙面に出る情報はカスばかりだ、という風評が立ったら、だれもその新聞を信用しなくなり、広告主もそっぽを向いてしまうからだ。

 こういう下地があったればこそ、06年、日経インサイダー事件が起こったとき、どの新聞社も、さっと内規を刷新、厳格化し、さらには明文化もし、素早く新しい引き締め体制を取ることができたのだ。また、多数の新聞社トップが指弾を受けた、リクルート・コスモスの未公開株入手事件(1988年)も、新聞関係者に株取引に大きなリスクがからむ教訓を残していた。いってみれば、新聞各社はこれらのブラックな前史から学び、インサイダー取引―報道人としての公正さを疑われる株取引から絶縁する見かけ上の対応策を整えることができたのだ。これに比べると、NHKは戦前戦中、さらには戦後を通じて、職員記者が株、為替、商品(小豆、金など)の相場で手張りするようなこととは、およそ縁のない報道機関だった。株との縁は、戦後、ラジオの時代に平日の毎日、前場、後場の引けのあとと夜の3回ぐらい、定時枠で株式市況を報じる番組をもっていた程度で、情報は証券取引所からもらっていた。それも、短波放送の市況専門放送が始まると、用なしになり、報道・番組制作上、兜町の自社取材体制は、新聞社と比べれば、なきに等しいのが実情だった。インサイダー取引ということは知っていて、一応の注意はしても、そんなことを職員がする可能性があるなど、これまで思いもしなかったというのが、上下を問わず、NHKのなかの大方の人間だったのではないか。

 今回証取委に摘発された3人の記者の取引実態と利益を、かつての百戦錬磨の手張り経験記者がみたら、大笑いするだろう。自分名義での直取引、オープンな情報の入手経路、異常な値動きが看取られやすい銘柄の選択、監視機関が不審な動きを容易に察知できるシステム上での無警戒な行動、ばれれば解雇必定というリスクがあるにしてはあまりに少ない利益、どれ一つとってみても、大甘だ。子どもが奈良漬け屋の前を通り、匂いだけで酒を飲んだと酔っぱらい、喜んではしゃいだあげく、転んだようなものだ。NHKの甘さとは、実はこういう体のものではないか。放置された無自覚、未熟、稚拙さこそ、問題なのだ。だが、言論・報道機関がこれでは困る。問題は、なぜNHKが、こんな体たらくをさらすことになったのか、プロとしての緊張感をもったジャーナリストの職業集団が、きちんと育っていかないのか、ということではないか。

◆気概のあるジャーナリストが育つ風土を築くのが先決だ

 橋本元一会長が1月21日、古森重隆経営委員長に辞意を表明した。その会長は、インサイダー取引問題担当の2理事の辞表は受理、ふたりの理事辞任(22日)は決まった。また会長は、ほかの全理事からの進退伺いも預かり、処分の一任を取り付けている。会長自身の任期は24日満了となるが、その直前に会長の辞意表明に接した古森委員長は、会長のすぐの辞任は認めず、24日に経営委員会を開き、そこで結論を出すことにしている。いわば、全理事の進退伺いを預かった会長の処遇を決することで、委員長は会長そのものと執行部全員の運命を左右する決定権を手にし、会長最後の日に臨むわけだ。本稿がアップされた直後、その結論は出るが、会長の任期満了に伴う辞任を認めず、問題の責任を取らせての処分というかたちで退任を決定することになれば、理事にも相応の厳しい処分が出る可能性がある。そうなると、経営委員会の執行部に対する実効的な支配力は格段に強まり、その後、協会生え抜きの人たちの自発的な力量の発揮がますます制約されることになるおそれがある。

 反対に、委員長の温情溢るるはからいで、説示訓戒はあっても、会長はめでたく任期満了、理事ともども厳しいお咎めなし、ということになればなったで、また厄介だ。22日、自民党電気通信調査会は橋本会長の出席を求め、インサイダー取引疑惑を糾問、全理事の辞任を要求した。そのあとを受けての温情決定が出れば、経営委員長は、協会執行部に大きな恩を売ることになる。どっちに転んでも、NHK生え抜きの協会の理事や幹部は、古森経営委員長に頭が上げられなくなるだろう。おまけに協会側というべき会長にも、25日からは古森委員長が連れてきた福地茂雄アサヒビール相談役が、就任する。

 NHKに独立不羈の気概をもった、誇り高いジャーナリスト集団が育たないのは、このような政治色の濃いしがらみが、ますます複雑化、巨大化しつつあるせいではないか、と思えてならない。それがNHK生え抜きの人たちのうえに覆い被さり、息を詰まらせ、仕事を見据えるべき眼差しを曇らせ、困難に立ち向かう自発性をそぎ、意欲をくじくことになっているように思える。そのことは、2005年、従軍慰安婦問題の番組改編が自民党の安倍晋三・中川昭一両議員らの介入によって行われたことが発覚したときも、痛感させられた。NHKの当該番組は、2001年1月末に放送されたが、その直前まで、当時の放送総局長などトップ責任者が、みずから赴いて安倍・中川議員らにどのような工作を行ったかも、その後明らかになっている。また、知らんぷりするこれら政治家の立場に気を遣い、番組の変更はNHKとしての自主的な編集判断によるものだと、上の人間は裁判で述べ、現場の制作・編成スタッフの努力と献身を裏切った。これでは、本気になってやってきたものはスポイルされるし、そうした先輩たちの本意にもとる敗北や挫折を知った若者たちは、敢えて危ない橋は渡るまいと、自分の殻に閉じこもるようになってしまう。

 3人の記者の転落の背景には、NHKの閉塞感がいつの間にか、彼らの仕事への関心や意欲を奪い、孤独な彼らの目を、身近なところでの小さな損得の行方ばかりに向けさせることとなった、共通する状況があるように思われる。昨年、NHK次期会長の選任に関して候補公募制度を要求、原寿雄さんと永井多恵子さんを会長候補に加えよとする運動に加わり、協会側との接触も経験したが(詳しくは「メディア・ウォッチ」前回=第27回を参照)、その際、NHK内部の人たちが、これまた上も下も、古森経営委員長の次期会長選任問題に対する不当な介入に対して、怒るでもなく、喜ぶでもなく、実に静かだったことに驚いた記憶がある。なぜ怒らないのだろうか。ジャーナリストの怒りは、まず自分の拠って立つ場において、道理に背くことがまかり通るのを許さない、とするところから発するものでなければならない。そうした気風が職場に満ちていれば、今回みたいな稚拙な非行に手を染める記者が出てくるわけがない。新聞に働く人々は今、ジャーナリズムを実践する同僚として、そのような方向でNHKのなかの人たちを激励していくことも必要ではないか。NHKへの介入をさらに強めようとする勢力に一緒になって反対し、NHKが自力で危機を克服、みんながジャーナリストとして成長していくのを援助するのだ。(了) このページのあたまにもどる