桂敬一/日本ジャーナリスト会議会員/メディアウォッチ(25)長井カメラマンのミャンマーからのメッセージ ―ジャーナリストよ、命と平和の危機に敏感であれ―07/10/04

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  長井カメラマンの ミャンマーからのメッセージ

  ―ジャーナリストよ、 命と平和の危機に敏感であれ―

   日本ジャーナリスト会議会員 桂  敬 一

 

 

 

 9月27日の夜、どこのテレビか、どこのニュー・スサイトだったか、記憶が定かでないのだが、nagaiミャンマーのヤンゴンで軍事政権に抗議するデモに治安部隊が発砲、日本人が撃たれたようだ、と伝える速報画面のなかの、1枚のスチル写真に目が釘付けとなった。

 僅かな時間だったが、左側には逃げる民衆、右下には仰向けに倒れたひとりの男性が、みてとれた。男性は右手でカメラのようなものを握り、迫ってくる兵士らしい人物に向かって、掲げている。

これが撃たれた人だとしたら、カメラマンではないのか―まさか、ただ転んだだけなのでは、と思い直した。この時点、撃たれたのが日本人カメラマン、長井健司さんであることは、まだ判明していなかった。

 

 翌朝、28日の朝刊をみて驚いた。これにそっくりの写真が、朝日と読売、両紙の1面トップに、カラーで大きく掲載されており、記事では、亡くなったのが長井さんであることを、報じていたからだ。前夜の写真はモニター画面のなかのもので、サイズは小さく、ピントもぼけていた。一方、両紙の写真は、逃げまどう人の姿や振り返る女性の顔の表情が、大きく鮮明に写っている。

ただ、前夜の写真の右半分をカット、左側だけを拡大した構図なので、路上に倒れた男性は写っていなかった。そしてさらに驚いたのが、毎日の1面だ。こちらは、前夜の写真とそっくり同じ全景が、再現されていたからだ。

しかもキャプションに、倒れているのは長井さんだと記されている。長井さんの後頭部は路面に落ちる寸前。なのに長井さんの右手は自分の頭を庇わずに、液晶ファインダー付きの小型ビデオ・カメラをしっかり握り、これを守るかのように、頭上に掲げている。

 

 ◆同じ写真なのに3紙の扱い方の判断は
  なぜ分かれたのか

 

 3紙の写真はみなロイターの配信した写真だ。後ろ向きに顔をみせている、黒い襟なしシャツの女性の表情や、警棒を振りかざし、逃げる人々を追う青い制服の警官の姿、彼に重なる人物の着物の形状などを子細にみると、三つはおそらく、毎日のをオリジナルとする、まったく同じ写真で、半分よりやや小さい右側部分を切り落としたのが、朝日・読売の写真だとわかる。

さらにそれらは、警官の足もとの地面、すぐ下の部分が、水平に切り落とされている。そのため、そこに写り込んでいた長井さんの掲げるカメラと上に突き出され左手が、まったくみえない。

朝日も読売も、記事は日本人カメラマン、長井さんの撮影中の死を重視するもの。それなのに、取材現場で兵士に襲われ、死んでいく長井さんの写真を紙面に載せなかったのは、なぜなのだろうか。納得がいかなかった。二、三日後、北海道新聞の1面をみたが、そこに載った写真は、毎日のと同じだった。

 

 ロイター配信にもともと2種類あり、朝日・読売は、長井さんが写ってないほうを使ったのかもしれない。あるいはトリミングは自社でしたのか。しかしどちらにせよ、長井さんが写らない写真を載せるとする判断は、自分でしたわけだ。その判断基準はなんだったのか。よくある、死体写真は残酷なので載せない、とするものか。そうではなく、政府の暴虐を伝えるには、警官に追われるデモの参加者の姿をこそ報ずべきだ、と考えたのか。

しかし、毎日、北海道の写真にみる長井さんの姿は、むごたらしく傷付けられた死体などではない。

nagai最後まで職務の遂行に懸命だったことを偲ばせる姿であり、静かな感動と深い悲しみを呼び起こす。 しかも、彼があの場所でカメラを回していたから、凶暴な追っ手を躊躇させ、左側の人たちが安全に逃げ延びられたことも想像させ、邪悪な圧制者に対する怒りは、かえって強まる。ひとりのジャーナリストがまさに身命を賭し、なにを守り、なにを告発しようとしたかが、これ1枚に凝縮されている。希有な写真だ。

 

 朝日は、この決定的瞬間をとらえた写真を、同日の夕刊1面トップに載せた。倒れている男性が長井さんであるとの確認をロイターから得たこと、日本政府が邦人の死亡に関してミャンマー政府に抗議する方針を決定、などの事態の推移をにらんで、掲載に踏み切ったようだ。だが、いかにも出遅れの感が否めない。

毎日は、同じ夕刊1面に、情報源はフジテレビの放送映像だが、長井さんが至近距離で兵士から撃たれ、地面に倒れ込むまでの3コマの、カラーによる組写真を掲載、朝刊に載せた写真の光景の、おそらく1分にも満たない直前の状況を伝え、迫力ある続報を展開した。

日経は、同じ組写真のモノクロ版を、ようやく29日朝刊に載せた。これが読売となると、長井さんの死にこだわるニュースセンスは、ほとんど感じさせなかった。

29日になると、さすがにどの新聞も、自分たちと同じジャーナリストが軍の介入する紛争の犠牲になった、とする視点から、事件を眺める姿勢をみせるようになった。しかし、28日朝刊における、毎日と朝日・読売の違いをみると、報道界でどこまでそのこと―暴力・戦争とたたかうジャーナリストのことが、本気で、また切実に考えられているのか、疑問を感じないわけにはいかなかった。

 

 ◆危険でも達成されねばならない
  ジャーナリストの使命

 

 戦争・紛争で死んだり、傷ついたり、人質に取られたりした日本人ジャーナリストを調べていくと、およそ大メディアの社員ジャーナリストがいないことに気付かされる。ほとんどがフリーのジャーナリストだ。

ベトナム戦争従軍で亡くなった沢田教一さんは正規社員だったが、社はUPI、アメリカの通信社だ。戦場で行方不明となった一ノ瀬泰造さんはのちにポル・ポト派に殺されていたことがわかった。共同通信のために働いていたが、フリーのカメラマンだった。

アフガニスタン戦争では女性のフリーカメラマン、南条直子さんが地雷に倒れ、ユーゴの戦争ではTBSのカメラマンと系列の記者が重傷を負い、イラク戦争ではフリーのフォトジャーナリスト、郡山総一郎さん・安田純平さんが武装勢力による人質を体験、フリーのジャーナリスト、橋田信介さんと若いフリー・カメラマン、小川功太郎さんは襲撃に逢い、殺された。

その後、インドのカシミール地方、スリナガルの紛争取材でもフリーのフォトジャーナリストが重傷を負っている。それでも日本の戦争ジャーナリストは、欧米各国の同業者と比べた場合、戦争・紛争で傷ついたり、死んだりしたものは、ずっと少ない。このような状況が、戦争や軍事紛争の危険は自分には縁遠いものと、大メディアの社員ジャーナリストに思わせているのだろうか。

 

 誤解されないためにいっておかなければならない。大メディアの社員ジャーナリストに、どんどん動乱のまっただなかにいき、欧米の記者に負けず劣らず死ね、といっているわけではない。そんなことはとんでもない話だ。1991年6月、雲仙普賢岳の噴火報道で迫力ある映像取材を競い合っていた報道関係者20名が、大火砕流の発生に巻き込まれ、死亡した。

危険を顧みず取材に没頭する現場の記者のやる気に敬意は払うが、なんでこんなにもたくさんの人が、読者・視聴者に凄い写真・映像をみせるためだけに、命を落とさなければいけないのかと、納得がいかなかった。

このとき、フランスの火山学者の夫妻が現地を探査しており、この二人も亡くなった。彼らは本来の職務に殉じたのだと思う。だが、一緒に死んだ20人の報道関係者の多くの人にとって、命を賭ける機会は、もっとほかにあったのではないかと、無念にさえ思えた。長井さんの死は、このような死ではない。

なにをなすべきか、自分の本来の使命をわきまえ、目的をはっきり自覚したうえでとった行動のなかで、起こったものだ。あるテレビ番組のなかでコメンテーターが、「あの場合は無謀な行動だった」と批判していたが、同意できない。

 

 長井さんには、ミャンマーの軍事政権とこれに異議を唱える民衆との対決の全容を、現地から具体的に伝えようという、明確な目的があった。demo

その視点は、民衆の側に立ち、軍・政府の暴力的な抑圧の非道を暴くところに、主眼を置くものだった。

そして最後となった取材は、その視点から自分の身をもって正しく、また余すところなくなされ、所期の目的を達した。現実にも、多数の民衆を追跡者の手から逃し、殺人者としての権力の姿をも、白日のもとにさらしてみせた。

 

この仕事の成果を長井さんは、不幸にして自分の命で購わねばならなかったが、それが無謀な行為の結果であり、本意にもとる無為、すべてが水泡に帰す行為だったとは、けっして思わなかったはずだ。

報道ビザの発給を停止し、ジャーナリストはそこにはいなかった、あるいは軍・政府としては知らなかった、とする偽装工作のもとで、自分に都合の悪い報道活動を行うものを狙い撃ちしたこの殺人は、国家権力の究極的な凶悪さを示している。被抑圧者の側に徹底して立つ心優しいジャーナリストだからこそ、そうした権力の実像を暴くこともできたのだ。

そこには本当のプロフェッショナルといえる、尊敬すべきジャーナリストの姿が認められる。橋田信介さんが亡くなったとき、残された幸子夫人が、プロの記者として生涯をまっとうした夫の仕事と生き方を尊敬し、誇りに思うと語るのを、感銘深く聞いたことを思い出す

 

 ◆権力に守られた取材では民衆も、
  権力の実像も、発見できない

 

 大企業に所属するジャーナリストであっても、市民・民衆の側に軸足を置き、権力を監視、抑圧者を批判する観点に立って取材・報道を行う気風を、かつてはいまよりずっと豊かにもっていたものだと、思い出すことがある。

60年安保の激しい国会デモがつづくさなか、6月15日に学生デモが国会構内に突入、その混乱のなかで女子学生・樺美智子さんが亡くなった。機動隊の挑発も凄まじいものがあった。

このとき、現場の状況を、ラジオ関東の島碩弥アナウンサーが、ラジオの生放送で全国に伝えていたが、機動隊は、島アナウンサーのいるラジオ・カーまで襲い、彼は暴行を受けながら、「警官隊が追っています。だれかれの見境なく、突撃しています。

今、首をつかまれました。今、放送中でありますが、警官隊が私の顔を殴りました」と実況中継をつづけたのだ。

マスコミ労組のデモの隊列は、いつも映画演劇・新劇人会議などの隊列の前だった。右翼の行動隊や警察の機動隊は、弱い隊列を狙い、暴力的な挑発をかける傾向があり、新劇人会議は標的にされがちだった。しかし、マスコミの隊列が近くにあり、そのデモ隊員と取材の記者・カメラマンが顔なじみで、行進中いつも大きな取材陣がつかず離れずでいると、それが暴力の抑止に役立っていると感じさせられることが多かった。

 

 デモ隊は、デモ取材の報道陣と隣り合って進み、その向こうに警官隊が配置されていることが多かった。あるいは車道の内側を進むデモ隊を、車道外側の警官隊と歩道側の報道陣が挟むかたちとなる場合もあった。こうした位置関係は、デモに参加する市民に大きな安心感を与えていた。メディアの目と耳が不当な暴力の攻撃から守ってくれるからだ。

報道陣は、自家発電を搭載、光量の大きい照明灯を備えた中継車は、まだもっていなかった。充電の早い自動ストロボもなかった。夜の写真・映像取材は、マグネシウムの束を、バチバチと火花を散らしながら焚くフレヤーで、大きな照明を実現していた。夜のデモに参加したときは、これが心強かった。まさかのときはそこに逃げていけば、まず安全だった。

しかし、取材陣、報道陣、マスコミは味方だとする安心感は、1969年、大学の全共闘運動が大衆的な政治・社会運動にも広がり、影響力をもつようになるのに伴い、急速に消えていった。

彼らのデモは、しばしばセクト間の内ゲバを伴い、隣接する一般のデモ隊に危険を及ぼすおそれがあった。報道陣は、厚い人垣となってデモ隊をびっしり囲む重装備の機動隊の外側にいて、警官に守られながら取材する形態のものに変わっていった。

学生も、新聞を「ブル新」と呼び、マスコミに敵意をもつか、蔑視する傾向を強めた。そしていつのまにか、デモ取材といえば、このかたちが当たり前になり、今日に及んでいる。

 

 ◆ジャーナリストに求められる命と
  平和を守ることへのこだわり

 

 いま長井さんの死は、ジャーナリストになにを教えているのだろうか。長井さんは理屈で考え、なにかを教えようなど、考えたこともないだろう。しかし、彼の民衆を懸命に愛し、権力の暴虐と不正を告発しつづけてきた行動は、命と平和を守るためにはどんな犠牲もいとわないとする、固い決意に支えられていたのではないか、と思えてならない。

そして、無辜の人々の命と平和が脅かされる危険にはつねに敏感であり、邪悪なものの支配が暴力の威圧によって貫かれようとするとき、ジャーナリストは自分の仕事のやり方で、これを阻むためにたたかうことが使命なのだ、と考えておられたのではないか。

このような長井さんのミャンマーでの仕事は、やがてかならずミャンマーの民衆のうえに実を結ぶものとなっていくはずだ。日本とミャンマーの本当の友好・交流が実現するときは、長井さんの存在を、両国民が思い出すことになるだろう。

9月28日、東京新聞(中日新聞)のミャンマー人現地通信員が軍によって自宅から連行、身柄を拘束されたが、今月3日、無事釈放された。ジャーナリスト・長井さんの殺害に対する国際的な批判が、彼の命と安全を守るうえで、少なからず助けになった、とみることができるのではないか。

 

 命と平和に対する敏感さを取り戻し、その鋭敏さをいっそう研ぎ澄ますことが、いま日本のジャーナリスト全体に求められている、と私は考える。酷いことがたくさん起こっているからだ。鳩山邦夫法務大臣は、「死刑の自動化」を可能とするような法制度の「改正」を検討する、と言明した。

さすがにいくつかの新聞は問題にしたが、批判的な議論はまだ本格的には行われていない。大阪教育大付属池田小でたくさんの学童を殺傷した宅間守被告は、自分から裁判を加速、一審(大阪地裁)の死刑判決をそのまま受け入れ、死んだ(04年9月、死刑執行)、奈良女児誘拐殺害事件の毎日新聞販売店従業員、小林薫被告も、一審(奈良地裁・06年9月)の死刑判決に対して自ら控訴を取り下げ、処刑を待っている。

異常な犯罪がなぜ行われたかの究明はなされないのだ。被告たちが心のなかに底なし沼のような暗黒を抱えていても、そんなものの解明は不要だというのだ。

しかも最近、凶悪犯は極刑をもって処罰せよとする風潮が、ますます強まっている。判決取材にきた記者が、被害者遺族に向かってマイクを差し出し、「判決を聞いたいまのお気持ちは?」と問いかけ、「不満です。極刑に処していただきたいと思います」という回答を、なんのためらいもなく引き出すようになっている。いつか日本の社会は、放置したままの、大量の心の暗黒から、しっぺ返しを食うことになるのではないか、とおそれる。

 

 9月29日、沖縄・宜野湾市では、文部科学省による教科書検定において、日本軍が沖縄戦で住民に「集団自決」を強制したとする教科書の記述を削除させたことに抗議、また、当初の記述の復活を求め、超党派の県民大会が開催されたが、参加者は11万人という多数にのぼった。

30日朝、東京の新聞は、朝日、東京の2紙が1面トップ、毎日が1面の2番トップで、カラー写真も載せ、これを大きく報じ、社会面などでもフォローした。読売、日経の2紙は、モノクロ写真も付けたが、記事ともども社会面の片隅で、大きな扱いとはいえない。産経にいたっては、28面の下にわずか45行の小さな記事。写真もなく、見出しも小さく、見逃してしまいそうだ。

北海道新聞は、1面は地元日本ハムの優勝胴上げ写真に取られたが、2面・社会面でカラー写真も付け、大きく扱った。扱いの小さい新聞では、社説を掲載する気配もない。このような各紙の姿勢の違いをどうみるべきだろうか。命と平和の危機に対する感度の差、民衆の側に立つのか、権力の強さにすり寄るのかの違いが、そこにうかがえるように思える。

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