桂敬一/日本ジャーナリスト会議会員・元東大教授/メディアウォッチ(55) なぜか申し訳ないと感ずる私の東北への思い―そこに若者のフロンティアをこそ求めたい―

11/05/14

kuruma

メディアウォッチ55

 

なぜか申し訳ないと感ずる私の東北への思い

 

―そこに若者のフロンティアをこそ求めたい―

 

桂    敬一 (元東京大学教授 ・ 日本ジャーナリスト会議会員)

 

 

急に考えなければならなくなった 「東北」 のこと

 

  東北の震災被害者のテレビ ・ インタビューを見ると、 しばしばいいようのない戸惑いに襲われ、 その情景をどう受け止めたらいいのか、 うろたえ、 気が休まらない。 町役場の防災無線で津波の襲来を告げ、 町民に避難を呼びかけつづけたまま行方不明になっていた女性職員の身元が、 50日以上も経ってようやく判明、 遺体が両親の元に還った。 老いた父親は、 涙をにじませた細い目にうっすらほほ笑みを浮かべ、 亡き娘の帰宅に安堵した心境を、 くぐもった声で言葉少なに語った。 保育園にいったまま行方不明になっていた孫の遺体を、 遠くに流された木片の山のあいだに発見した祖父 ・ 祖母も、 保育園にいくのを送ったきり会えなくなった孫娘を探すため、 そのとき別れた場所を毎日訪れている祖父も、 そうだった。 穏やかな表情のまま、 悲しみを静かな声でつぶやくだけだった。 感情のほとばしりをまるで見せないそうした姿から、 かえって収拾に困るほどの大きな衝撃を受ける。 初めての経験だ。 いったい東北の人々とは、 どんな人たちなのだろうか。

 

  大津波は、 茨城 ・ 福島では遠い沖合から、 巨大な横一線の壁となって押し寄せ、 やがて浜辺に白く砕ける波のしぶきを舞い上げ、 松林を叩き潰し、 家々や工場を壊しながら押し流し、 さらにそれらを、 ことごとく沖にさらっていった。 三陸海岸では、 岬の合間の入り江に盛り上がって侵入したうねりが、 奔流となってビルの屋上を洗い、 家の屋根の上に船を置き去りにし、 車を捨てて高みへと逃げ惑う人たちの足下まで迫った。 それはまるで、 ノアの方船を山頂にまで押し上げた、 神話的な伝承のなかの大洪水を彷彿とさせた。 このような災厄に、 どうして東北の人々が見舞われなければならないのか。 死んだ孫娘が発見できない老人は、 無言のまま瓦礫の山を踏み分け、 言葉では尽くせない悲しみを背中に見せながら、 過酷な運命に翻弄される古代悲劇の主人公のように、 ゆっくり立ち去った。 親しい人を失った人たちの喪を、 ただ見守ることしかできない自分の無力を思うと、 頑張れなどと、 軽々に口にできないことが、 身に染みてわかった。

 

  そういう気持ちとともに、 東北というところ、 そこに住んできた人たちに、 なんだか申し訳ないという気がしてならないのも、 不思議だった。 これまでそこがどういう地域なのか、 自分にどういう関わりがあるのか、 住んでいる人たちはどんな人たちで、 自分と同じようにものを考える人たちなのか、 というようなことに思いが至らず、 そのことをちゃんと知ろうとも理解しようともしてこなかった自分に、 気がついたせいかもしれない。 また、 今回ばかりは、 人間には制御しきれない自然というものがあることを、 つくづく思い知らされたが、 東北の人たちが、 そんなことはとっくに理解しているうえに、 大きな犠牲を強いられながらも、 自然に敵対的に立ち向かい、 これを制圧しようなどとは夢思わず、 むしろ自然への畏敬を大事にしている、 ということに気づかされたことも、 ショックだった。 そのような自然への向かい合い方こそ、 人間的なものなのではないか。 自分としては、 予想もしていなかった盲点を突かれる思いがした。

 

日本の経済成長は東北のためになっていたのか

 

  東北といえば、 まず 「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」 の宮沢賢治を思い出す。 しかし、 石川啄木のほうがもっと東北的な文人ではないか。 「ふるさとの訛りなつかし 停車場の人ごみの中に そを聴きにゆく」 の歌に込められた望郷の思いの手触りは、 東北人ならではのものだろう。 岩手出身の編集者、 大牟羅良の編著 『戦没農民兵士の手紙』 (岩手県農村文化懇談会編)、 自著 『ものいわぬ農民』 のことも思い出した。 戦時中は兵士の給源地とされ、 戦後の成長期に向かっては、 年少労働力供給地とされていく東北の農村の実態を知ることができたからだ。 やがて高度成長真っ盛りの時代になると、 中学新卒者が 「金の卵」 ともてはやされ、 東北から毎年々々、 上野駅にたくさんの少年少女が送り出されてきた。 明治以後の日本の近代化 ・ 工業化、 首都圏の巨大都市化の進展を眺めるとき、 それを可能とさせた影の役割を、 東北は長らく担わされつづけ、 その結果、 屈折した東北人独特の心理や郷土愛が形成されることになったのではないか、 と思える。

 

  そうした構造的特徴をもつ東北に、 原子力発電や高速道路 ・ 新幹線がやってきた。 東京に住む私たちにとって、 東北は身近なものになった。 だが、 大震災と福島第1原発の事故で気づかされたのは、 原発のつくった電気はみな首都圏に送られていたのであり、 発電所のある地元には電力供給面のメリットはまったくなかった、 という事実だった。 地震で破壊された高速道路、 新幹線も、 復旧してみれば、 首都圏から地方に出かけていくものの利便が優先されている面が、 歴然とする。 一方、 津波と放射能汚染に見舞われた市町村をつなぐ生活道路や第3セクターの鉄道の被害は大きく、 被災地域間相互のつながりも断たれ、 孤立したままの地域や住民が多い。 これらの地域では、 みな車頼みの生活だった。 地震と津波に車を奪われ、 道を断たれ、 ガソリンも手に入らぬとなると、 動きもとれない。 便利だったはずの車生活の災害に対する脆弱性が、 無残にも露呈した格好だ。 都会のようには公共的な交通システムがない。 おまけに放射能汚染が、 長年の居住地から住民を追い出す。 首都圏に住むものとしてはその落差の大きさに、 今さらながら愕然とする。

 

  東北のこうした立ち位置を、 知らないではなかった。 しかし、 実際に地震 ・ 津波 ・ 原発事故が競合脱線的な被害を東北に及ぼした状態は、 単にこの地の惨状というより、 首都圏に歪んだかたちで隷属させられてきた咎が、 全部さらけ出されたといった体のものだ。 だから東北に申し訳ないと思う気持ちにもなるのだと、 納得がいった。 そして、 恐ろしいのは、 首都圏と東北の不幸な関係を断ち切り、 どちらも自由に、 また両者が互恵的に生きていけるようになるにはどうしたらいいのか、 という先の展望がなかなか見えてこない点だ。 政府や財界は、 早期の巨額な復興投資を実施し、 従前どおりの復旧を急ぎ、 さらに産業的成長を促す本格的復興を目指す、 というメッセージを発している。 多くの新聞も賛成だ。 だが、 原発の放射性物質を垂れ流しつづけたままでは、 人の住めない地域が広がり、 工場は稼働できず、 農漁業のできないところも増え、 最低限の復旧さえ危ない。 他方で、 原発を止めるなどのことは絶対考えられない―エネルギー不足を招き、 経済成長が不可能になる、 というものが多い。 いったいわれわれは、 どちらに進むべきなのか。

 

今後の人口減少に対応しなければならない復興計画

 

  これまで同様の経済成長、 産業発展を目指すとなると、 まずは被災現地での巨大土木工事を内容とする公共事業の立ち上げか。 海抜10メートルの大堤防で津波が防げず、 壊されたのだから、 もっとずっと高くて厚い、 より長い堤防を築くのか。 リアス式海岸の鉄道のたくさんの落ちた鉄橋、 レールが宙づりになった流された路床を、 みんな元どおりにするのか。 それよりも、 発想を変え、 入り江に面した狭い平坦部には戸建て住宅が並ぶ町はつくらず、 高地に居住区域を設け、 その区域沿いにローカル鉄道も走るように路線変更をするなどし、 時たまの大津波、 大洪水が平坦部に溢れても、 それをやり過ごせるような工夫を凝らすほうがいいのではないか。 そうするほうが、 地域ごとの地理的条件に合致した居住環境が実現しやすく、 また巨大災害に出逢っても、 地域の共同体機能を保全、 住民を孤立させることがなく、 また隣接地域との連絡の維持や復旧も容易となるはずだ。 昔のような建設利権で大手ゼネコンや政治家を喜ばすことだけは、 止めるべきだ。

 

  日本全国の土木工事型公共事業をテコにした高度成長こそ、 東北を犠牲にするものではなかったか。 さらにあちこちから、 道州制を目指せ、 「大阪都」 実現などと歩調を合わせて首都圏機能分散を考えよと、 もっともらしい声も上がっている。 しかし、 かつて叫ばれた 「地方の時代」 が、 結局は地方を中央に縛りつけるものでしかなかったように、 大型市町村合併 ・ 新幹線 ・ 高速道路 ・ ネット情報化をフルに生かした地方行政の再編は、 全国的な集権体制と大企業本位の自由市場化のいっそうの推進に帰結するだけだろう。 このような構想は、 田中角栄以来の列島改造計画の流れを引くものだ。 その弊害を憂い、 国土庁次官を務めた下河辺淳はかつて、 多極分散型国土という考え方と、 それに基づく 「定住圏」 構想を提唱した。 長年の自民党政治に馴染んだ地方自治体はこの構想に目もくれず、 惰性に流され、 中央への従属性をかえって強め、 地方の自立性を弱めてきてしまったが、 東北6県は、 今回災害からの立ち直りを機に、 連合単一ブロック圏としての自治能力の強化と、 圏内各地域の定住圏としての自立と連携を、 一緒になって目指すべきではないか。

 

  東北の少子高齢化と人口減少は全国で最速だ。 今回壊滅的な被害を受けた市町村でも、 戸数で数千戸を超えるような市街地は、 それなりに復旧の歩みがたどれるだろう。 だが、 同じ市町村にあっても、 飛び地 ・ 山間部など、 市街部から離れた戸数の少ない集落などでは、 高齢者が亡くなれば居住者がいなくなるとか、 子どもが農業や漁業を継がずに家を出ていけば、 耕作放棄とか漁船の減少が進むなど、 様々な要因によって集落の維持そのものが困難になり、 そうした面から人口減少が加速されるおそれもある。 後背地の衰退は市街地にも、 商業 ・ サービス業の不振、 小規模製造業の労働力不足などの悪影響を及ぼし、 それでなくても乏しい就業機会がますます少なくなっていく。 「定住圏」 構想というアイデアは、 けっして夢のような話ではない。 震災と放射能の脅威の到来前の自分たちの住み慣れた村や町の記憶、 同じコミュニティの住民の親しさが残っているあいだに、 急いで定住できる自分たちの土地、 そこに住み、 家族を何代にもわたって育てたいと思える場を構築しないと、 人口減少に歯止めがかからなくなる危険が迫っているのだ。

 

若者が仕事を見つけ、 家族を育てたくなる東北を

 

  昭和一桁半ば生まれの世代から敗戦後10年余の間に生まれた団塊世代までの大人は、 人数も多く、 正規従業員として働き、 退職金 ・ 年金がほぼ約束された世代に属する。 彼ら (彼女ら) は子どももあまり多くは生まなかった。 戦中生まれ世代で辛うじて平均2人ちょっと、 戦後世代では2人を切っている。 したがって、 彼らの子どもたち、 とくに昭和二桁に入って以降生まれた親の子どもたちのあいだに、 85年以後のバブル時代、 フリーター、 オタク、 引きこもりなどの現象がみられるようになったが、 そうした若者たちは、 親の家や収入を十分当てにすることができた。 バブル崩壊後、 若者を取り巻く環境は厳しくなり、 働きたくても派遣の口しかなく、 フリーターも、 ひと頃の好きでやっているのとはまるで趣が異なるものとなった。 だが、 親は家のローンを払い終わり、 年金もそこそこもらっており、 まだ親が当てにできた。 しかし、 これから退職を迎える団塊世代の尻尾のほうは、 退職金を減らされ、 年金も少なくなっている。 当てにはできない親のはしりが出現したのだ。 彼らの子どもたち、 新しい若者はこれからどうしたらいいのだろう。

 

  そんなことが心配になったのは、 東北の被災地でボランティアとして働く、 たくさんの若者の姿をみたからだ。 しかし、 16年前の阪神大震災のときは、 大阪、 京都、 岡山、 鳥取など近隣の地域から、 はるかに多い若者たちが神戸に駆けつけていた。 だが、 東北では、 被災4県のほか2県を含めても、 若者の数がずっと少なくなっているのが実情だ。 なおかつ、 16年前は、 都会の若者は被災地を去り、 地元に帰れば、 正規社員の仕事に戻ることができた。 学生もまだ就職が容易だった。 しかし、 東北の被災現場に赴いたボランティアの若者のなかには、 定職のないものがかなり含まれていた感じだ。 彼ら (彼女ら) の多くは故郷に帰っても、 安定した仕事に就けず、 不安な暮らしを送らなければならない。 もちろん東北の被災地を見舞う雇用不安は、 もっと酷くなるはずだ。 もう親は頼れない。 なんとしても被災地にたくさんの仕事の場、 若者を引き留める、 さらには首都圏 ・ 関東近県も含めた東北外部の若者をも引き寄せることができる、 報酬は少なくてもやり甲斐のある仕事の場をたくさんつくり出すことが必要になっている、 といわねばならない。

 

  本当の東北の復興とは、 そういうものではないか。 雇用の場をたくさん創り出し、 多数の若者が各地域に定住し、 家族を増やしていけるような施策を、 いわば東北復興のニューディール政策として展開していくことが、 望まれているのだ。 教育 ・ 医療などに従事する地方公務員、 高齢者支援 ・ 子育て支援などの福祉サービス、 遺伝子組み換えなしの穀物生産 ・ おいしい米づくり、 有機野菜 ・ 果実 ・ 花 ・ 山菜の栽培、 地方色豊かな名産づくり、 珍しい地魚の商品化、 養殖漁業 ・ 水産加工の拡充、 農水産品の消費地への直販システム実現、 林業の再興、 都会の児童に農漁村生活を体験させるエコ ・ ツーリズム、 全国の成人や外国人を対象とした滞在型 ・ 周遊型レジャーの開発、 多機能IT通信基地 ・ ネット起業家 ・ オンリーワン技術をもつ小規模製造業などの誘致、 工芸家 ・ 美術家 ・ 建築家 ・ 音楽家 ・ 映像作家などを招いた 「芸術村」 の建設、 伝統芸能 ・ 民芸 (陶芸 ・ 織物など) の振興など、 新しい発想で全国の若者を惹きつけることができれば、 彼ら (彼女ら) は、 その地域と生活を愛する住民として定着、 新しい東北の発展のために貢献していくだろう。

 

21世紀の東北のビジョンで日本全体を変える

 

  東北の作家、 高橋克彦は、 蝦夷の雄、 伊治鮮麻呂 (これはる ・ あざまろ) を主人公とした『風の陣』と、 同じく蝦夷の伝説的な反逆者、 阿弖流爲 (アテルイ) を主人公にした『火怨』という小説、 二つの大長編を書いている。 これらの物語を、 最近の歴史考古学的な方法を用いた古代史研究の成果とあわせて読み返してみると、 古代の東北縄文人の生活文化には、 単一の支配文化への従属を嫌うが、 代わりに多様な民族文化の共存を許容する特色があり、 日本のあり方をそうした方向に導いていく大きな可能性があったことを、 想像させる。 現実にはその可能性は、 大和朝廷によって圧殺されてしまった。 支配文化はほぼ平安時代に完成され、 その後、 明治維新、 太平洋戦争、 敗戦後の高度成長時代を経て現在にまで至り、 私たちは無意識のまま、 従順にその支配に服してきた。 だが、 東北にゆかりの少年死刑囚、 永山則夫や、 アキバ事件の加藤智大容疑者は、 支配者がつくった社会の歪みの底辺から怨嗟の声をあげ、 不遇の作家、 葛西善蔵、 太宰治は、 現代の不安を私たちに呼び覚ましてきた。 過激な生き方の果てに死んだ寺山修司、 果敢な生き様を示す辺見庸は、 支配者の偽善や偽計と、 支配される側の卑屈や怠慢とを、 容赦なく告発している。

 

  遠い昔に失われた東北全体を、 21世紀の今、 新たに一体のもとして取り戻し、 これを首都圏、 中央というようなものを経由せず直接、 環日本海、 オホーツク北方圏のような大きな経済 ・ 文化圏に結びつけ、 さらに大和朝廷とは関係なく独自の生活文化圏を確立してきた沖縄や、 先住民 ・ アイヌが暮らす北海道とも協力し、 多様性を持った魅力溢れる国、 開かれた日本として、 東アジアのなかにしっかり位置づけていくことが、 これからの私たちにとって極めて重要な課題になっている。 若者たちの未来は、 そうした展望の下で大きく開けていく。 東北は若者たちのフロンティアとなるのだ。 この展望を妨げる福島第1原発の放射性汚染物質流出は、 即刻止めなければならない。 (終わり)