桂敬一/元東大教授・日本ジャーナリスト会議会員/メディアウォッチ(53) 沖縄とジャンヌ ・ ダルク ― そして尖閣諸島のこと10/10/06

 

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マスコミ九条の会  メディアウォッチ  第53回

 

沖縄とジャンヌ ・ ダルク ― そして尖閣諸島のこと

 

桂  敬一 (元東大教授 ・ 日本ジャーナリスト会議会員)

 

 

  9月23日、 東京 ・ 駿河台の明治大学リバティ ・ ホールで開催された集会、 「沖縄フォーラムIN東京  普天間は問いかける」 は、 とてもいい催しだった。 普天間問題をめぐる沖縄と本土のギャップをどうしたら埋めていけるか、 本土はなにをすることができるかを考えていくうえで、 参考になることがたくさんあった。 私は最後に集会全体を振り返り、 事実上締めくくりのコメントを述べる役目を与えられていた。

 

  そこで、 最近の沖縄のたたかいをみていると、 ジャンヌ ・ ダルクのことを思い出す、 というようなことをしゃべった。 時間が短かったので、 その意味するところが十分には理解してもらえなかったかと思う。 そこで、 なんで私がそんな話をしたのか、 あらためて説明したい。

 

◆ 「クニ」 を守るために立ちあがったジャンヌ ・ ダルク

 

  ジャンヌ ・ ダルクは、 フランス東北部のロレーヌ地方にある、 ドンレミという寒村の農民の娘として生まれた。 14世紀半ばから主にイングランドとフランスとのあいだでたたかわれた、 中世ヨーロッパのいわゆる百年戦争のさなか、 1412年に生まれ、 両国の攻防の山場、 オルレアンにおける戦闘でジャンヌはフランス軍を率いて戦勝をかち取り、 一躍「オルレアンの乙女」と称えられ、 国民的英雄となった。 彼女のいくさへの参加は、 神の啓示に従うものだったため、 カトリック信仰のヒロインともされた。 しかし、 その後巻き返してきたイングランド軍と、 これに通じたフランス軍の一派に捕らえられ、 また教会にも見放され、 1431年、 火刑に処され、 19歳で命を絶たれた。

 

  ジャンヌを邪魔者扱いした勢力が裁判で、 彼女は神からの啓示でなく、 悪魔から唆されたのだ―彼女は異端者だとする判決を下したからだ。 だが、 民衆のジャンヌに寄せる思いは消えなかった。 彼女のおかげで王として戴冠ができたシャルル7世がイングランド軍を駆逐し、 フランス全土がほぼ統一され、 カトリック教会も人心掌握の必要を感じるようになると、 ジャンヌ復権の動きが生じた。 1455年、 ジャンヌの母の懇請によって復権裁判が開かれ、 処刑後25年の翌年、 彼女はふたたび国民的英雄、 殉教者に祭りあげられた。 教会は少女を聖人に列した。

 

  フランス人はなぜジャンヌ ・ ダルクを、 今でもある種の国民的象徴として敬慕するのだろうか。 それがなかなか理解できない問題だった。 しかし、 自分の生まれた国、 親しい同胞が住む国を、 異国の軍隊の、 思うがままの蹂躙にまかせてはならない、 として立ちあがったジャンヌの気持ちを推しはかっていくうちに、 だんだんあることがわかるようになってきた。 フランス語では国は、 ペイ (pays. 田舎、 故郷、 国) という。 英語のカントリー (country) も同じような意味を持つ。 そしてこれらは、 国家 (フランス語ではエタ=état、 英語のステート=state) とは、 はっきり区別される。そこにくると日本語は、 クニが故郷と国の両方の意味を持つ点では共通するが、 国が容易に国家の意味になってしまうところが、 英仏語とはかなり違う。 そして、 わかってきたのは、 ジャンヌは結局、 自分たちのペイのためにたたかいつづけてきた、 ということだった。

 

◆ジャンヌの精神はフランス市民のたたかいに受け継がれた

 

  百年戦争の時代のヨーロッパは、 現在の西欧 ・ 中欧全体と東欧の一部にまたがり、 どの地域でも統一国家の安定した維持ができるような強大な王朝が成立しておらず、 いたるところで王族諸侯が合従連衡を繰り返し、 相争うような状況にあった。 またカトリック教会も各派の抗争が激しく、 世俗権力の争いの影響を強く受けていた。 そのなかでイングランドがしだいに勢いを増し、 覇権的な動きを示してフランスにも侵略、 フランスの諸侯が内紛にうつつを抜かしていれば、 民衆が外国軍勢の支配下に屈服させられ、 酷い目に遭う事態が目前に迫っていた。 助けてくれる国家はなかった。 ジャンヌは自分と仲間をみずから助けるために立ちあがった。 そして、 そのたたかいを通じてフランス国王の誕生を促し、 国家がたくさんのフランス人のペイを守る砦となるよう、 たたかいをつづけたのだ。

 

  こうしたジャンヌのたたかい方は実は、 1789年、 フランス革命でルイ王朝を倒し、 最初の共和制政府を樹立した市民のたたかいにも通じるものだ。 ペイにおける自分たちの生き方を貫くために、 国家を新しくつくり替えたのだ。 また、 1871年のパリ ・ コミューンで悲劇的にたたかった市民も、 たくさんのジャンヌたちだった。 プロセイン軍に降伏した第3共和制政府の決定に従わず、 あくまでも自分のペイを守り抜こうとした市民たちは、 みずからコミューンという国家、 自治政府を生み出した。

 

  それは独軍と自国政府軍との攻撃によって壊滅させられ、 最後はペール ・ ラシェーズで市民兵士が皆殺しにされたが、 コミューン政府の政教分離、 無償の義務教育などの政策は、 民衆の支持の下に受け継がれていった。 また、 後代に花開く女性参政権の先例もそこに認められた。 フランス人のジャンヌへの思いは、 このような歴史の地層を貫く地下水のように、 保たれてきた。 だから第2次大戦中、 ドイツ軍に占領され、 ヴィシー政府がその支配に隷属しても、 これを認めず、 自分のペイを基盤にたたかいつづけるレジスタンスが存在し得た。

 

◆明治維新の政治家と戦後沖縄の政治家との違い

 

  田舎、 故郷、 今暮らしているクニを大事にするところからスタートし、 国のあり方にも関わり、 国家の望ましいかたち ・ 役割の決定を促していく。 そういう民衆的な歴史の動きが果たして日本にあっただろうか、 というのがつぎの問題だ。 明治維新に向かう胎動のなかには、 確かにそういう部分もあった。 だが、 倒幕、 明治政府の創設は、 市民革命ではなく、 雄藩連合の武士たちが天皇を錦の御旗に、 ある種の宮廷革命、 クーデターというべき政変を強行、 いきなり中央集権的な軍 ・ 官僚支配の国家を急ごしらえでつくるものだった。 その国家は、 クニに住み、 日々の暮らしを営む人たちの熱烈な支持を、 基底部において欠くものだった。

 

  国家を支配するものにとって、 多くの異なるクニの民衆が主体的に国のあり方にかかわろうとするのは、 厄介な話だった。 国家が推進する富国強兵政策に従順についてくる国民がいるだけでよかった。 日本国家が手本とするのは、 欧米の帝国主義的列強だった。 それらを真似て、 外国への侵略にも手を染め、 戦争に勝った国家としての成功で国民を眩惑することができれば、 国家の望む方向での国民統合もできた。 官軍の先鋒として東山道を疾駆した相良総三のような草莽 (そうもう) の志士たちや、 自由民権運動のなかで特異な光芒を放った秩父困民党の農民たちの居場所は、 そこにはなかった。

 

  しかし、 沖縄は違っていた。 沖縄の人びとはつねに自分たちのクニにしっかり足を置き、 クニの成り立ちや営みに脅威を及ぼすものとたたかい、 その射程のなかで国家のあり方を問いつづけてきた。 琉球王国時代の人びとについてもそうした片鱗を認めることができるが、 太平洋戦争において過酷な地上戦を強いられ、 さらに米軍の占領支配を長期にわたって蒙る状況のなかで、 沖縄の人びとはクニを守るたたかいを強め、 そのことを通じて日本という国と国家のあり方を、 痛烈に問いつづけることになった。 そこに出現する象徴的な人物としてはまず、 政治家、 瀬長亀次郎を挙げることができる。

 

  瀬長は戦後、 地元の新聞記者を経て、 1946年の沖縄人民党の結成に参加、 書記長となった。 米軍の横暴な占領に抵抗して県民の支持を集め、 初の立法院選挙に当選 (52年)、 ますます政治的影響力を強めたが、 米軍の画策による人民党事件に連座、 54年に刑期2年の投獄を食らった。 出獄後、 56年の那覇市長選に出馬し、 大方の予想を裏切り、 当選を果たしたが、 彼を嫌った米軍は、 罪を犯した入獄者には被選挙権がないとする布令の改正を行い、 市長の身分を剥奪、 彼を追放処分にした。 しかし、 瀬長は屈せず、 戦後初めて沖縄で実施された70年の衆院選挙に当選、 国政への進出を果たした。 その背後には、 「亀さんの背中に乗って祖国へ帰ろう」 を合い言葉とするたくさんの島民がいた。

 

◆クニを大事にする民衆が自分たちの政治家を生んだ

 

  つぎに思い出されるのが、 沖縄返還運動の最盛期に琉球政府の行政主席を務め、 72年の返還後は最初の沖縄県知事となった屋良朝苗だ。 本土で沖縄返還と称された政治目標は、 沖縄では祖国復帰といわれた。 その表現には、 「返還」 というそっけない手続き的な意味に止まらない、 クニと国に対する熱い思いが籠められていた。 沖縄の教職員運動の指導者だった屋良は、 復帰協 (沖縄県祖国復帰協議会) の有力メンバーでもあった。 彼は68年、 即時復帰の主張を掲げ、 初の行政主席選挙 (それ以前は米軍が主席を指名) に高得票で当選、 米軍や、 アメリカに融和的な自民党政府に、 衝撃を与えた。 沖縄返還が72年に早まったのは、 この選挙結果の影響が大きいといわれている。

 

  そして、 95年 ・ 米兵少女暴行事件が起きた沖縄で大田昌秀知事が、 それまでの米軍基地見直し政策を一歩進め、 土地の収用 ・ 更新に必要な署名を国に代わって知事が行う代理署名を敢然と拒否、 沖縄への大きな注目を本土から集めたことが忘れられない。 大田知事はまた96年、 本土政府に対して普天間基地の移設は県外しかありえない―沖縄はこれ以上の負担に耐えられない、 とする申し入れを行った。 3期目の選挙で開発誘致 ・ 基地受容派の候補に選挙で負けたが、 大田は今もなお、 持論に添った評論活動をつづけている。

 

  こうした人物、 指導者を輩出した根底には、 クニを守るために躊躇なく立ちあがり、 粘り強くたたかう県民、 島ぐるみといわれる大規模な運動を展開する民衆が存在することを、 忘れるわけにはいかない。 1995年9月、 米兵による無惨な少女暴行事件が起きると、 連続する類似の基地犯罪への怒りを溜めてきた県民の怒りは一気に噴出、 戦後初めてという、 8万5,000人もの多数の県民が全島から集まる抗議集会が、 開かれた。 これは米軍への抗議だが、 日本政府への怒りも2007年、 沖縄戦における県民の集団自決の関連記述を教科書から排除、 抹殺しようとした検定に対する抗議集会 (9月) で、 大きく示された。 このときは、 なんと11万6,000人も集まったのだから驚く。

 

  そしてことし4月25日、 鳩山内閣が 「国外 ・ 県外移転」 から後退、 ほとんど自民党と同じ考え方で普天間基地の県内移設に向かおうとする情勢の下、 これに反対する県民大会が読谷村 (よみたんそん) で開かれ、 そこには約9万人が集まった。 こうした動き全体に通じる特徴は、 県民一人ひとりが自分のクニを守る気概で国家に、 さらには不当に長期に居座る外国軍に、 真正面から向き合い、 そのあり方の根本的な変革を真剣に求める強い姿勢だ。

 

◆新しいジャンヌ ・ ダルク、 たくさんのジャンヌ ・ ダルク

 

  新しいたたかいはまた、 新しい特徴を示しだしている。 それは集会というような形式だけに終わるものではない。 09年総選挙で普天間県内移設反対派議員5人を全員勝たせたほか、 ことしの参院選では 「国外 ・ 県外移設」 の約束を裏切った民主党に議席を与えなかった。 というより、 民主党は候補も立てられなかった。 また名護市長選では基地移設反対派候補 ・ 稲嶺氏を当選に導き、 つづく名護市議選では同じく移設反対派議員が大きな差で過半数の議席を占める結果を生み出した。 この勢いは11月の沖縄知事選に向かってさらに力強さを増している。

 

  普天間基地がある宜野湾市の伊波市長が立候補を表明しているが、 彼を擁立する共同戦線が大きく広がっているからだ。 伊波候補はもちろん、 県内移設に反対であり、 普天間の国外移転をかねてから強く主張してきた。 民主党の一部も巻き込んだ、 自民 ・ 公明を除く各党会派がこぞって、 伊波候補の支持を宣言している。 仲井真現知事は、 自民 ・ 公明からの推薦を受けることになるが、 すでに中央の自民 ・ 公明に対して、 県内の移設はもはや不可能だ、 自分は県外移設を選挙で訴えていく、 と公に言明している。

 

  沖縄にひとりのジャンヌ ・ ダルクがいるわけではない。 しかし、 たくさんのジャンヌ ・ ダルクがいて、 それぞれが自分のペイ=クニを大事にし、 その価値やアイデンティティを損ねるものが現れれば、 力を合わせて粘り強くたたかい、 国家に対して自分の正しさを認めさせていき、 そのことをもって国家のあり方にも変化を及ぼしていく、 とする営みが確かに存在しているように思えるのだ。 沖縄では政治家は、 そうした民衆の存在を無視してはやっていけない。 新聞だってテレビだって同じだ。

 

  一方、 本土には、 国会がある。 中央省庁もある。 大政党の本部もある。 国の経済を動かすあらゆる大会社も居並んでいる。 一見、 そうした本土でのりっぱな民主主義の諸活動が、 日本の運命を左右するように思えるが、 本当はそうではないのではなかろうか、 という気がしてしょうがない。 本土大メディアの、 中央政局のああでもない、 こうでもないという動きばかりにうつつを抜かす報道や、 国家間のいさかいごとに押っ取り刀といった風情で大騒ぎする議論をみていると、 つくづくそう思えてしまう。

 

◆尖閣諸島問題 ― クニとクニ同士の利益を考えた解決を

 

  そう思っているところに、 尖閣諸島海域で中国漁船が日本の海上保安庁巡視船に衝突する事件が起こった。 どの報道も、 日中間で棚上げにされてきた尖閣諸島の帰属問題、 それに伴う領海問題がそこには存在している、 とする認識を示す。 そして日本としては、 1895年に尖閣諸島の領有を宣言、 国際法に定められた無主地先占の法理によってこれが有効とされるから、 同諸島は日本に帰属するものであって、 そこに領有権問題はない―また、 これに伴い、 海洋法の規程に基づく範囲で同諸島周辺の海域は日本の領海となる、 とする点でも、 どのメディアも一致している。 しかし、 この論法で問題の解決は本当にできるのだろうか、 と考えるとき、 また沖縄のことが思い浮かんだ。 さらに3年ほど前に台湾を訪ねたときのことも思い出した。

 

  もともと尖閣諸島周辺の海域は、 沖縄でも主には八重山の諸島の漁民の漁場だったはずだ。 また、 中国 ・ 福建省、 東シナ海南部の漁民や、 台湾北部沿岸部の漁民の漁場でもあったはずだ。 さらに、 八重山列島最西端の与那国島の住民と台湾北端の住民とは、 昔からさまざまなかたちで交流があり、 さらに中国 ・ 福建省の沿岸住民は早くから台湾に移住しており、 これら三者は長い期間を通じて、 海上交通、 物資の交換、 通婚、 災害避難などで結ばれ、 深く交わり合ってきたのだ。 陸地では住むところを異にする三つのクニの人たちが、 この海域を一つのクニとして、 平和に暮らしてきたのだ。

 

  国家と国家が主権を賭け、 国境線をどこで引くかで争い、 どちらも譲らぬときは、 必ず戦争になる。 いつまでもそういうこだわり方で、 国境紛争を解決しなければならないものなのだろうか。 それよりも、 住民同士の利益になるように解決しよう―当該地域や海域は、 お互いの入り会い区域としよう、 とするような解決はできないものか、 と思う。 そこから得られる利益は平等に分配すればよい。 地下資源だって、 開発や製品製造などのコスト負担、 得られる利益の両面にわたって、 そうした知恵の働かせ方は、 考えればいくらでもできる。

 

  もともと沖縄は、 琉球王国の時代から、 その東アジアにおける地政学的な位置と海洋国としての特性を生かし、 自由に往き来できる相手国、 地域の政権や住民と、 そのような互恵的な関係をつくり、 通商、 漁業、 移民などの政策を平和的に進めてきた。 沖縄は別名、 非武の島といわれる。 非武装に徹し、 自衛の手段としては空手しか用いないことで有名だ。 それは、 政治主義的なイデオロギーとして唱えられたものでなく、 そのほうが東アジアで諸国と交わり、 生きていくとき、 利益が大きいことが、 長年の経験からわかっていたからなのだ。

 

◆ますます重要になる沖縄の存在と意味

 

  ジャンヌ ・ ダルクの時代は、 まだ国家が曖昧な時代だった。 その後、 国家という考え方ができ、 欧米近代の帝国主義国家ができると、 それらの国は植民地の争奪まで含めて国境線の延長 ・ 拡大を争い、 戦争に明け暮れ、 いたるところのクニを壊滅させてきた。 そして、 今にいたるも、 クニを復権する智恵を持てないでいるのが実情だ。

 

  だが、 日本の沖縄は、 クニの潜在力を依然として豊かに備えており、 その力を用いて、 アメリカ国家の覇権主義とそれに従属するだけの日本のあり方とを、 変革しようとしている。 その示唆に学び、 日本の政府は、 また大メディアは、 中国の横暴を、 敵対する立場から非難するのでなく、 国家の論理を肥大させ、 みずからの内なるクニを圧殺することこそ、 中国にとって危険なのだと、 中国に忠告すべきではないか。 なぜならば、 その過ちは日本が先に犯したものでもあるからだ。 沖縄の指し示す未来の可能性を、 今十分に考えてみる必要があるのではないか。 (終わり)