「マスコミ九条の会 公開市民セミナー」

 日本はなぜ「対米従属」を断ち切れないのか

 ―政治・経済・軍事の日米関係の構造を解き明かす―

第3回 講師:早野 透(朝日新聞コラムニスト) 2008.06.13

メディアは今 何を問われているか

対米従属とナショナリズムの捻れがもたらした閉塞

―早野記者が解明する戦後保守政治の軌跡と問題―

桂 敬一 日本ジャーナリスト会議会員

 「二つ質問があります。日本は広島・長崎でアメリカから酷い目に遭ったのに、なんで戦後あっさり“入米”、“従米”になったんでしょうか。アフガンやイラクの人たちは占領下でも抵抗を止めません。二つ目は、秋葉原で事件を起こした若者も、集まった若者も、みんなバラバラです。韓国の若者には、BSEでアメリカに妥協する李明博大統領に一致して反対するナショナリズムがある。どうして日本の若者はこのようになれないのか。以上二つ、お尋ねします」。

 

 マスコミ九条の会の「対米従属」公開市民セミナー第3回は、朝日新聞コラムニスト、早野透記者を講師とする「ナショナリズムと対米従属の捻れ―戦後保守が作った日米関係」。講師の基調講演が終わり、質疑応答に移った途端、若い参加者から飛び出した質問だ。「第1問については、みんながそうならと、一つの極から反対の極へ一斉に振れていく、日本人の情けない国民性のせいかとも思うが、やはり私にも疑問が残る。

 

 ひとりひとりにエンジンがなく、全体が固まって筏のように流されていく日本人を、西欧の知識人は非哲学的民族と批判する。しかし、憲法9条はまさに哲学的理念。これを貫くことで日本人は変わっていける。日本の若者も2005年、小泉郵政選挙のとき、ネットの穴ぐらから2チャンネル・ナショナリスト集団といった趣で突如出現、小泉を勝たせた。さらに赤木智弘さんが、“丸山真男をひっぱたきたい”“希望は戦争にしかない”で登場すると、にわかにロスト・ジェネレーションの旗手みたいになった。

 

 一方で、雑誌『ロスジェネ』(かもがわ出版)が創刊され、派遣の労働組合化が進展している。こっちが大きくなればアキバ的弱点は克服できるだろうが、2チャンネル・ナショナリズムが強くなると、それは「反中」「反韓・反朝」も強め、今よりずっとおかしくなりそうだ。韓国には、独立闘争、李承晩独裁打倒、光州事件、全斗煥体制反対・民主化闘争など、血を流し、自力でかちとった民主主義がある。

 

 日本の民主主義はこのように自分でかちとったものではない。自分としては今、9条と非正規雇用の問題をどう結びつけるべきか、一生懸命考えている。その答えの出し方いかんでこれから先、日本が右に振れていくのか左に振れるのか、大きな違いが出るのではないか」。早野記者は若者に問い返した。

 

 このやりとりで会場にある種の熱気が生じた。質問者・回答者の問題提起・考察の両方から示唆を受け、満席の聴衆ひとりひとりが、自分だったらどう考えるかと、頭を巡らしだしたのだ。講師と受講者という垣根も取り払われた雰囲気になった。実際には講師としての早野記者の講演は、戦後主要政権における対米政策の変化のあとを丹念に辿る、堅い話だった。だが、講演が終わり、戦後保守の生んだ現在の閉塞と危機がはっきり示されたとき、今の問題としての「ナショナリズム」「対米従属」を、ひとりの日本人として自分はどう考えるべきかとする生々しい問題意識を、聴衆は掻き立てられたのだ。

 

 早野記者によれば、ナショナリズムは、国家間のパワーゲームの産物―他国に対する自国の正当性や国力の示威、国民統合、愛国心の涵養などを通じてつくられてくるものだ、とされる。ところが、戦後日本の平和憲法=9条は、カントの「永遠平和のために」に示された思想に源流を発し、また第1次世界大戦の惨禍に対する国際的反省から生まれた「パリ不戦条約」にも根拠を置くものであり、国家間抗争のなかの支配・従属とか、ナショナリズムとかを超越したところにある、と考えるのが早野記者の議論の出発点となっていた。

 

 新憲法第9条は、敗戦直後のひととき、すぐ朝鮮戦争、再軍備などがやってくる直前、一瞬現れた青空の下で、奇跡的に生まれた。敗戦日本の実質的な最初の政治リーダー、吉田茂首相は、占領者・マッカーサー元帥と対等に付き合える政治家としてのポーズを保持することに腐心した。そういう芸当ができる政治家は、彼しかいなかったともいえる。そのコツを、「よき敗者(good loser)」に徹することだと、吉田自身が語っている。彼は占領軍の初期の改革、民主化政策を進んで受け入れた。もちろん新憲法も受け入れ、非武装こそが日本の最良の安全保障政策だと、国会で演説した。このとき占領軍に向かい合う吉田を支えたものは、天皇制ナショナリストとしての矜持だったのではないか。

 

 それがアメリカの無理難題に向かっていく鼻っ柱の強さにもなった。占領軍方針が冷戦政策のなかで変わり、朝鮮戦争勃発とともに日本に対する再軍備の要求が強まると、吉田は、無理をすれば自主経済を不能にし、軍閥復活、反米・共産化を招くと、アメリカを恫喝、最小限の警察予備隊の創設程度に止めさせた。代わりに独立後の米軍駐留を受け入れたが、集団的自衛権は強いられない保障も確保した。しかし、吉田や同時代の政治家、椎名悦三郎らには、米軍は日本を守る「番犬」だとする考え方があり、その「エサ代」は負担しなければならない、と思ったのだ。

 

 だが、9条を変えるとか、核武装をするとかの考え方は、本心は別として、当時の状況ではなかったようだ。しかし吉田は、単独講和によって独立を実現させたが、それは事実上の占領体制の継続を伴い、米軍の広範な軍事行動に日本も協力しなければならないとする日米安保・行政協定が結ばれたため、今日につながる対米従属の基本構造と、9条との原理的矛盾とを、残す結果になった。

 

 坊ちゃん育ちの鳩山一郎が首相となり、坊ちゃんナショナリズムを発揮、再軍備を目指すと、9条改憲の危機を感じた有権者は、左右社会党に票を集中、両者が統一して改憲阻止の3分の1の衆院議席を確保した。すると対抗上、保守も合同、自由民主党にまとまり、いわゆる55年体制ができあがる。保守の舵取りは、経済優先で国民の支持を集め、改憲は解釈でいくこととし、自衛隊を出現させた(自衛隊法成立)。

 

 大きな変化は、60年日米安保改定を主導する岸信介内閣のとき、訪れる。戦争中の商工大臣で、戦犯容疑者とされた岸首相は、アメリカと対等の日本を実現することに執着する、いわば戦犯ナショナリストだった。池田・ロバートソン会談、MSA(日米相互防衛援助協定)調印のあと、アメリカのダレス国務長官は日本に対して、日米安保の大幅な内容的変更を求め、日本に大きな双務性を担えと迫った。

 

 岸はそれを受け入れる姿勢は示しつつ、米軍の配備と使用についての事前協議、日本の自主防衛力の漸増、日本の旧領土・米軍基地・沖縄施政権などの返還を求めた。そして最終的には当面、解釈改憲でいき、集団的自衛権の行使は日本に義務づけず、自衛隊の海外派遣はしないこと、その代わり、米軍は極東、朝鮮半島における戦闘行動での在日基地の利用、沖縄への核持ち込みは日本の同意なく自由にできることなどで、両者合意することになった。核兵器の持ち込み・通過、朝鮮半島有事の際の在日米軍基地からの出撃は、一応事前協議の対象となったが、密約でそれは不要とされたのだ。

 

 密約は今日もなお、日本政府によれば、ないことになっているが、米国の公文書の公開で、それがあったことは証明されている。岸政権は沖縄返還は実現できず、それは弟の佐藤首相の政府に委ねられた。日本の非核3原則を正式に表明した佐藤政権はこれでノーベル賞をもらい、「核抜き本土並み」の沖縄返還を実現したことになっているが、岸時代の密約のため、本土・沖縄とも核抜きは不完全で、さらに安保の自動継続をアメリカに約束、これを対米従属の縦糸として残した。また沖縄の基地も、事実上はそのままで、この部分が今も、対米従属を最も痛感させるものとなっている。

 

 田中角栄首相は、アメリカ一辺倒でなく、対極で中国との国交正常化を実現、両者のあいだでバランスを取っていく日本外交というスタイルを考え出した。本来これは、アジアの緊張緩和、日米安保の解消に向かう道につながるはずだった。だが、ニクソン訪中で先に国交正常化を果たしていたアメリカに対して中国が、日本の将来の軍事的暴発を防ぐ観点から日米安保はあったほうがいいと述べ(日米安保「ビンのふた」論)、アジア規模でアメリカに日本を抑える役割が期待される、おかしななりゆきが生じることになった。

 

 その後の米ソ緊張緩和(デタント)の流れのなか、歴代内閣は防衛費1%枠順守(三木内閣)、駐留米軍への「思いやり予算」開始(福田内閣)など、対米軍事関係に新しい変化が生じたが、冷戦末期の最後の段階で中曽根康弘首相は、米レーガン政権とのあいだに「ロン・ヤス関係」と自称する緊密な関係づくりに励み、「日米は運命共同体」「日本は不沈空母」と唱える戦略構想をうち出した。

 

 中曽根のこだわりには旧制高校ナショナリズムといった色が濃く、岸と似たところがある。その構想は、防衛費の増加、自衛隊の軍事的行動範囲の拡大を特徴とし、集団的自衛権の議論に火をつけた。結果的には、憲法違反となる集団的自衛権の行使は不可だが、米軍への経済援助は禁じられていないとか、日本救援の米艦船の護衛は個別的自衛権の行使だなど、合憲の範囲を解釈で拡大、日米共同の軍事行動の可能性を広げる方向が追求されていった。そして、このような状況を一変させたのが、@冷戦崩壊・湾岸戦争、Aブッシュ政権・小泉政権・「9・11」だった。

 

 @ 冷戦崩壊・湾岸戦争:米ソ対決の冷戦構造の崩壊は、アメリカの世界一極支配構造を現出させた。それは、冷戦体制の下でアメリカに従っていくという仕組みとは違い、アメリカ主導の「国際貢献」にどう対応するか、とする問題を日本に突きつけた。

 1990年のイラクのクエート侵攻が引き起こした湾岸危機、翌年の湾岸戦争の勃発は、この問題に火を点けた。パパ・ブッシュは日本に、人的貢献も含めた多国籍軍への参加を求めた。憲法の制約を理由とする日本は動けず、見返りにたくさんの戦費を拠出したが、アメリカの侮蔑にさらされた(海部内閣)。

 戦後の自衛隊掃海艇のペルシャ湾派遣に踏み切った日本は、小沢一郎自民党幹事長のリードの下で自衛隊の「国際貢献」への協力の可能性を追求、戦後・平時の国連平和維持活動を支援するPKO協力法を制定した(宮沢内閣)。その後、同法による自衛隊の派遣・活動は、カンボジア、ゴラン高原、東チモールで実施されている。村山党首を首相に送り、自民と連合政権を作った社会党が自衛隊合憲論をうち出したのも大きな変化だ。

 だが、村山政権下で95年、沖縄米兵・少女暴行事件が起こり、つぎの橋本政権下で普天間基地返還の日米合意が成立した。橋本内閣は日米安保新ガイドラインでもアメリカと合意し、小渕内閣はこれに基づき、周辺事態法を策定、日本列島に対する攻撃への地理的防御を想定してきた日米安保を、地理的には無限定な、「周辺事態」とされる状況に対処する、広範な軍事条約に変質させた。

 

 A ブッシュ政権・小泉政権・「9・11」:ブッシュ政権がニューヨークの「9・11」攻撃への報復としてアフガニスタン、イラクへの戦争を開始すると、小泉首相は躊躇なくブッシュ支援に踏み切り、アフガンへはテロ対策特別措置法を作り、インド洋上に海自艦を派遣、米軍などの艦船に給油補給を行った。イラクに関してはイラク人道復興支援特措法を制定、空自機を送り、米軍への兵站輸送に当たらせ、サマーワには陸自駐留部隊を派遣した。それらの違憲性が国会で問題になると、首相は「戦闘地域か非戦闘地域か、わかるわけがない。自衛隊がいくんだから非戦闘地域でしょう」というような無責任な答弁に終始した。

 そして、このようないい加減な議論で、これまでの政権が曲がりなりにも憲法問題として考えてきた安全保障の議論の枠組みを、一気に壊したうえ、さらにその勢いで有事法まで成立させてしまった。そのやり方を、ブッシュのイラク政策の過ちと失敗が明白になるのに伴い、最悪の対米従属と国民が意識し、さらに憲法9条の危機とも受け止め、読売の今年4月の世論調査でも、9条改憲について賛成(かつての中曽根支持)30%、反対(同じく宮沢プラス土井支持)60%という回答結果が出る事態となった。

 小泉郵政選挙の遺産をもらって安倍政権が生まれ、彼は任期中の改憲を標榜、教育基本法「改正」、憲法改正国民投票法の成立まで強行したものの、未熟な過激さから自壊、改憲の課題は後に残された。彼の「戦後レジームからの脱却」のスローガンは、戦後保守の鼻祖、吉田の敷いた路線を転覆するものだ。これはかつてなかった保守の変化、あるいはもう保守とはいえない新しいイデオロギー政治の提唱というべきだろう。「ナショナリズム」も「対米従属」も、ともに絡み合ってこのような混迷のなかにあるのが、現状ではないか。

 

 早野記者は以上のように語ったのち、ほかの質問にも答え、「対米従属は、日本の政治の自分の基軸、原理とするものをもたず、アメリカの出方に振り回されるところから生じてきた。ナショナリズムは原理にはならないが、9条は原理となり得る」「吉田的独立、岸的独立はまずい。それがこんなに基地を残してきた。これはよくない、そうではない独立をという考え方が出てこないといけない。

 

 この点ではジャーナリズムにも問題がある」「しかし、なにもかもメディアが悪い、とする言い方だけの批判ではだめだ。実際には現場で頑張っているたくさんのジャーナリストがいることも忘れず、いい仕事に気付いたら声援を送ってほしい」と語った。冒頭に記した若い質問者が、「私は早野さんが書いている連載、“ポリティカにっぽん”のファンです。楽しみにしているので、なんとか掲載回数をもっと増やしてください」と、質問に先がけて注文をつけ、ほかの参加者の笑いと拍手を誘っていたのが、印象に残る。

以 上

NPJ 通信2008.6.17より転載

メディアは今 何を問われているか 22.

桂 敬一 日本ジャーナリスト会議会員