
増田 尚(大阪弁護士会)/犯行の動機や手口、背景の人間関係を
報道する「自由」と「知る権利」/07/12/06
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犯行の動機や手口、背景の人間関係を
報道する「自由」と「知る権利」
増田 尚(大阪弁護士会)
犯罪報道のあり方が問われるようになって久しいが、和歌山カレー事件、秋田児童連続殺害事件、そして最近の香川の祖母・孫姉妹殺害事件に至っても、十年一日のごとく、テレビは、事細かに犯行の動機や手口、背景にある人間関係をショーアップして伝え、被害者、被疑者を問わずメディアスクラムに見舞われている。マスメディアは、一時はしおらしく検証記事(番組)を報じるが、次に視聴率が取れる事件が起これば、元の木阿弥である。
犯罪報道への批判に対するマスメディア側の言い分というのは、犯罪を報じることは、国民の知る権利に応えるものであり、メディアの責任でもある。これを規制することは報道の自由を侵害するものであり、すなわち、国民の知る権利を制約することでもある、というものである。しかし、一見もっともらしい、この言い分が憲法上、どこまで意味があるものか、疑わしいといわざるを得ない。
言論の自由は、国民が政治過程に参加する上で、もっとも基本的で重要な権利であり、これが侵害されれば、政治過程による修復は困難であるがゆえに、その規制は必要にして最小限でなければならない。また、自由な言論は、他社とのコミュニケーションを図り、人間性の発展に大きく寄与するものであることは疑いない。だからこそ、言論の自由は最大限に保障されるべきである。言論の自由の重要な担い手であり、マスとしての国民を媒介する報道機関(マスメディア)は、この言論の自由の意義から、犯罪報道のあり方を検証すべきではないだろうか。
果たして、犯行の動機や、犯行の手口、背景となる人間関係を事細かく報じるのは、国民の政治過程への参加(権力の行使、監視・批判)とどう関わるのか。人間性の発展にどう寄与するのか。単なるのぞき見趣味に応える報道と、それによって侵害される被害者、被疑者の権利とを比較する秤が壊れているとしかいいようがないのではないのか。
香川の事件を例にとって、あの報道が国民の何の役に立つというのか。殺されない借金の断り方か。身内が殺されたときに、コメンテーターから犯人視されない日ごろの言動のあり方か。
マスメディアは、時として、「第四の権力」とも称される。権力のあり方を監視・批判し、もって国民の権利を擁護することから、そのように呼ばれるのである。しかし、マスメディアが国民の権利を侵害する側に回ったとき、他の権力からのチェックを受けることになりかねない。マスメディアが自身の存在意義に立ち返って、犯罪報道のあり方を見直すことが求められている。