前坂 俊之/静岡県立大学国際関係学部教授/満州事変前夜、日中戦争、太平洋戦争を通してみる戦時を目前に変質していった新聞メディア―権力に操作される新聞の姿、先導する「読売」の今の役割ー(5) 08/07/25


 

満州事変前夜、日中戦争、太平洋戦争を通してみる戦時を目前に変質していった新聞メディア

 

―権力に操作される新聞の姿、

   先導する「読売」の今の役割(5)

 

前坂俊之(静岡県立大学国際関係学部教授)

 

(5) 朝日の満洲事変の社説転向

 

―その背景に軍の不買運動と右翼の恫喝!

 

 もともと『大阪朝日』は伝統的に自由主義の色彩が強く、軍部批判は他紙以上にきびしかった。それがなぜ、唐突に転換したのでしょうか。

 

 それには二つの理由が指摘できます。まず、

 第一は国家の重大時に当たって新聞として軍部を支持し、国論の統一をはかるのは当然だとするナショナリズムです。

 第二は不買運動で、『大阪朝日』が軍部批判を行った結果、軍部、在郷軍人会、右翼などから激しい反撃をくらい不買運動が各地で起きました。

 

 特に、関西では奈良県で相当規模の不買運動が起こり『大阪朝日』を慌てさせたのです。師団のあった香川県善通寺など軍都で特に不買運動が広がり、こうした落ち込みに 『大阪毎日』 がチャンスとばかり販売の拡張にくり込み、販売面で 『大阪朝日』 は苦境に立たされました。

 

 いうまでもないことですが、編集と販売は新聞の両輪です。いくら高邁な編集方針であっても、その新聞を売っていく販売力がしっかりしていないと、経営の安定が欠かせない。販売部数が落ちれば、商業紙として一番こたえるのです。

 

 不買運動は『大阪朝日』の大きな打撃となりました。その時の模様を当時『大阪朝日』整理部次長・大山千代雄は次のように回想しています。

 

 「大阪朝日全社内に満州事変を不満とする空気がみなぎっているものだから自然に紙面にもにじみ出てくる。すると、小倉で新聞不買運動が起った。在郷軍人会が主となって不買を決議した。いろいろ朝日からも人を派して、了解を求めた結果、師団長がこの決議を撤回するのに非常に骨を折ってくれた。

 それでも新聞の売れ行きは三万、五万と減っていった。下村海南(副社長)から『新聞の売れ行きが減ることは重大な問題である。新聞経営の立場を考えてほしい』と苦情が出たくらいだ」(1)

 

 結局、それまで軍縮の先頭に立ち、軍部に遠慮のないきびしい批判を加えていた『大阪朝日』は背に腹は変えられないと、主張を変えてしまう。1931(昭和6)年10月なかばの重役会で「満州事変支持」に態度が決められたのです。

 

 この内幕について、ズバリの資料がある。当時の『朝日』 の重役会について、大阪憲兵隊が情報を収集して、マル秘として中央に報告していたものである。少し長くなるが全文を次に引用します。15年戦争で新聞が敗北していくきっかけとなった歴史的な資料です。(2)

 

(1)マル秘文書「満洲事変への批判は絶対許さず」

 

「大朝、大毎両社ノ時局二対スル態度決定二関スル」(嵩高秘第658号1931年10月10日)とあり、次のような内容です。

 

 「大阪朝日新聞社ハ、従来社説其他二於テ国家財政経済的立場ヨリ常二軍縮論ヲ強調シ、殊二編集局長高原操、論説委員タル調査部長藤田進一郎、経済部長和田信夫等ハ其ノ色彩最モ濃厚ナルモノトシテ注目シアリシカ日支衝突事件ノ局面展開シ国家重大時機ナルニ鑑ミ、軍縮二対スル態度ハ暫ク措キ目下ノ時局二対スル方針決定ノ為十月十二日午後一時ヨリ、同夜八時二亘ル間同社重役会議ヲ開催シ

 

 取締役副社長・下村宏、専務取締役・上野精一、取締役・村山長挙、取締役(編集局長)・高原操、同・辰井梅吉、同・原田棟一郎外、主ナル各部等集合協議ノ結果、大阪朝日新聞社今後ノ方針トシテ、軍備ノ縮少ヲ強調スルハ従来ノ如クナルモ、国家重大時二処シ日本国民トシテ軍部ヲ支持シ、国論ノ統一ヲ図ルハ当然ノ事ニシテ現在ノ軍部及軍事行動二対シテハ絶対批難批判ヲ下サス極力之ヲ支持スへキコトヲ決定、

 

 翌十三日午前十一時ヨリ編集局各部ノ次長及主任級以上約三十名ヲ集メ高原ヨリ之ヲ示達、下村、辰井両取締役モ之二敷術説明ヲ加へタル由ニシテ、当時席上二於テ言論界トシテ外務省ノ如ク軍部ニ追随スル意向ナルヤ等ノ質問アリシモ、高原ハ之ニ対シ現時急迫ナル場合微々タルコトヲ論争スル時機ニアラスト一蹴セリ。大朝ノ姉妹紙タル東京朝日ヲモ同様ノ方針ヲ執ラシムル為下村副社長ハ十三日上京ス」

 

 軍部や軍事行動に対して絶対批難を下さないという徹底して従属する内容であったことが注目されます。

 この中にある13日の編集局各部次長の説明会の席上、「軍部ニ追随スル意向ナノカ」と質問したのが大山であった。

 高原は「それは質問ではない。議論である」とも逆襲した、という。

 しかし、依然としてその後も整理部内の満州事変への反対の空気が根強く、首脳部は、整理部、支那部と話し合った。高原はこの時も「船乗りには『潮待ち』という言葉がある。遺憾ながら我々もしばらくの間、潮待ちをする」(3)と答えた。

 

 しかし整理部の不満は一向におさまらず、会社側は1932(昭和7)年1月、整理部員の半数を入れ替えるという大異動に踏み切り、事変反対の空気を一掃した。

 

 ただ、この大方針の決定、重役会での決定は、全社的に方針として打ち出され、社員に徹底されたか、どうかは疑わしい。

 当時、『大阪朝日』で駆け出しの経済記者をしていた森恭三は当時の模様をこう回想しています。

 

 「その頃の大阪朝日新聞社内の空気は関東軍にたいして批判的であるように私には思えました。ところが、それがいつのまにか弱まっていった。社の方針が変ったのかどうか、私たち下っ端にはわかりませんでしたが、この時分から新聞の時流への妥協が始まったのだと思います。

 当時、一口に軍部といっても、強硬論は関東軍だけで、東京の陸軍省や参謀本部では、ともかくも事変不拡大方針でした。財界は事変勃発後、かなり長い期間、関東軍にたいして批判的でした。何故なら、関東軍は『満蒙は我が国の生命線』と認識し、後年の五・三事件や二・二六事件につながるひとつのイデオロギーをもっていて『満州に資本家は入るべからず』と公言していたからです。

 そういう情勢を考えると、かりに大阪朝日新聞が『満州事変反対』の論陣を張ったとした場合、かならずしめ孤立無援ではなかったのではないか。ところが、それをやらなかった。朝日の内部で、論説委員室や編集の部長会が、社運を賭しても関東軍独走を批判し、事変に反対の姿勢をとれというような意見を出したという話を、私たちはついに聞かなかったし、また私たち若い記者がこの間題について上部の説明を求める、ということもしませんでした」(13)

 

 森は戦後、論説主幹となり、『朝日』の論説の中心となった人物である。森の回想は約半世紀たってからのものなので、正確さという点では、全面的に信頼できない。ただこの後でも『大阪朝日』は慎重であり、国際連盟脱退でも反対の立場に立ったが、それらはあくまでも消極的な批判か、はっきりものを言わない沈黙にとどまり、結局、軍部に屈伏し、最後には言論の自由の息の根を絶たれたのです。

 

 ところで、この件に関して、そのご重大な事実が明らかになったのです。高原社説の180度の転換、重役会での軍部への絶対支持決定の背景には驚くべき事実が隠されていたのです。

 後藤孝夫『辛亥革命から満州事変へ―大阪朝日新聞と近代中国』(みすず書房)で詳細に明らかにされていますが、事変直後に右翼の総本山、黒龍会の内田良平から旧知の調査部長・井上藤三郎を通じて、『大阪朝日』幹部への面会の申し入れがあったのです。

 

(2)黒竜会が面会申し入れ、

 

 9月24日夜大阪の料亭で井上は内田と会った。井上は『大阪朝日』に入社する前に、黒龍会の機関誌編集にたずさわっており、同社内における右翼との折衝窓口であった。

 この時の会談の内容は不明だが、翌25日の重役会では事変についての方針が協議された。

 

 この重役会には高齢のためそれまでほとんど顔をみせなかった村山龍平社長が出席しており、重大な方針が決められたことをうかがわせる。

 

 この時の重役会の内容も不明だが、後藤は「内田が井上を通じて、『大阪朝日』の姿勢を恫喝、脅迫した」のではないかとみる。その結果、高原の満蒙放棄論への釈明書を本人が書いたのである。これは謝罪広告に近いもので、東西両『朝日』に高原の名で掲載する予定であったが、美土路昌一東京朝日編集局総務が「こんなものを出すと軍部に降伏したと物笑いになる」と掲載に強く反対してストップとなった。美土路は抗議をしていた参謀本部次長の二宮治重中将にかけあった。

 

 二宮は「朝日は反軍の張本人だ」と美土路と激しくやり合い、二時間ほどの押問答の末、結局今後は納得のゆくまで話し合おうということで了解し、謝罪広告は出さずにすんだ。しかし、内田の直接行動をにおわせる胴喝に、高原も大阪朝日の編集幹部も屈伏してしまった、と後藤は指摘する。

 

 「時期が時期であり、大阪朝日としては単なる右翼の脅し文句以上の無気味なものを感じざるを得なかったに相違ない」(6)

 

 右翼の巨頭としての内田の存在そのものとその背後には参謀本部のバックアップがあった。黒龍会はかつて白虹事件で村山社長を襲撃した実績がある。二宮や建川美次参謀本部第二部長らは右翼団体を糾合して、新聞工作を行っていたのです。

 

 軍部、右翼が一体化して攻撃を仕掛けてきたのである。「大阪朝日を震骸させたのは、直接には軍部の威を借る内田の申入れである。暴力に抗する方法なしというのが、村山社長変身の理由であろうが、いったん屈した以上(聖戦)への協力を阻む歯止めはもうありようがなかった」状態になったのである。

 

 満州事変への「木に竹をつぐ」ような対応の変化にはこのような恐るべき暴力、脅迫が隠されていたのです。(つづく)

 

引用資料・参考文献

 

(1)『朝日新聞販売百年史(大阪編)』朝日新聞大阪本社百年史編集委員会(1979年)356-357p

(2)『資料 日本現代史 8満州事変と国民動員』功刀俊洋・藤原彰編 大月書店 1983年 96p

(3)『辛亥革命から満州事変へ―大阪朝日新聞と近代中国』(後藤孝夫 みすず書房 1987年)384p

(4)『辛亥革命から満州事変へ―大阪朝日新聞と近代中国』(後藤孝夫 みすず書房 1987年)385p

(5)『私の朝日新聞社史』森恭三 田畑書店(1981年)20-21p

(6)『辛亥革命から満州事変へ―大阪朝日新聞と近代中国』(後藤孝夫 みすず書房1987年)389−390p

(7)『辛亥革命から満州事変へ―大阪朝日新聞と近代中国』(後藤孝夫 みすず書房1987年)391p