前坂 俊之/静岡県立大学国際関係学部教授/満州事変前夜、日中戦争、太平洋戦争を通してみる戦時を目前に変質していった新聞メディア―権力に操作される新聞の姿、先導する「読売」の今の役割ー(4)08/06/15


満州事変前夜、日中戦争、太平洋戦争を通してみる戦時を目前に変質していった新聞メディア

 

―権力に操作される新聞の姿、

   先導する「読売」の今の役割(4)

 

前坂俊之(静岡県立大学国際関係学部教授)

 

 

 (4) 満州事変と朝日の社説

 

 問題は社説でどう論じたかです。

 

 事変後初の『大阪朝日』の社説は、20日の「日支兵の衝突、事態極めて重大」で、この社説は高原の執筆で異例の二段組みで、関東軍の行動を自衛権の発動だとして、全面的に擁護しています。事態の推移がよくわからない段階なので、これはある程度やむを得ません。

 

 「曲は彼れ(中国側)にあり、しかも数百名兵士の一団となっての所業なれば、計画的破壊行為とせねばならぬ。断じて許すべきでない。(中略) そもそも満鉄はわが半官半民の経営幹線なりといえども、わが国の利益のためのみに存するものでない。世界交通路の幹線である。万国民の公益擁護のうえから、これが破壊を企つものは、寸尺の微といヘども容赦はできない。わが守備隊が直ちにこれを排撃手段に出たことは、当然の緊急処置といわねばならぬ」

 

 中国政府は21日に、事変を国際連盟へ提訴、アメリカにも不戦条約違反行為として訴えます。

 

 これに対して、26日の社説では「断じて他の容喙は無用、帝国政府の満州事変声明、正当なる我権益擁護のみ」と題して、再び事変の正当性を強調しています。

 

 「その後、事態の急に応ずるため、満鉄沿線各地の支那兵営を占領し、あるいは沿線を離れた現地に兵を進めたけれども、これらはもとより在留民保護のため蜃急に備えたものであって、己に一部は引揚げを了り…‥。

 

 またこの事態に応じて朝鮮より数千名の増援隊を派遣したけれども、これも条約上の規定守備の兵員補充であって、決して必要以上の増兵はやっていないのである」

 

 「さらば帝国軍隊の行動は全く『正常なる権利の擁護のため』であって、決して局外者よりかれこれ非難さるべきではないのである。…‥・吾人の見解では連盟がもしこれ以上に容喙するようのことあれば、それこそ必要以上に日本の国論を刺激し、却って実際利益なき結果となるであろうことを断言して憚らない」

 

 この中で独断専行の見本の越境将軍≠フ林司令官の行動まであつさりと容認したのです。9月29日の「連盟と満州事件」と題する社説では次のように書いている。

 

 「そもそも今回の事変は支那兵が満鉄を破壊し危害を我に加へたるに端を発し、我軍は己むを得ざる緊急処置として自衛権の行使をなしたるものと解釈する以上、第二の事態拡大防止も、第三の領土的野心のためでは絶対にないとも自ら証明されるのである。この三点が帝国政府の声明中に明記されてあることが国際連盟は勿論、外国の世論をして日本の行動を正当なりと諒解せしめるに至った所以である」

 

 事変前とは断然異なり、強硬論に一転しており、軍事行動の即支持のニュアンスが強い。これが一挙にエスカレートする。

 

 『大阪朝日』10月1日の「満蒙の独立、成功せば極東平和の新保障」はそれまでの『朝日』の主張を180度転換するものであった。これは高原の論説であったが、事変前に軍部の満蒙独立論をはげしく批判していた人物かと思うほどの転向ぶりであった。

 

 「されば東三省人民の現在の苦境を効うために各省に新政権をおこし、これを打って一丸となし、一新独立国を建設することは、更に国際戦争の惨禍を逸れるゆえんであって、極東平和の基礎を一層強固にするものでなければならぬ。吾人はこの意味において、満州に独立国の生れ出ることについては歓迎こそすれ反対すべき理由はないと信ずるものである」

 

 「木に竹をついだ」ように満州事変前後で高原の論説は軍部批判から満州国独立の容認へと180度急転回したのであった。

 

 10月16日の『大阪朝日』は第一面に大きな社告を掲載した。

 

 「満州に駐屯の我軍将士を慰問、本社より一万円、慰問袋二万個を調製して贈る」と題して次のように書いた。

 

 「満州事変突発以来、満蒙における我が権益擁護と治安維持のため、重大任務に服しつつある満州駐屯軍の労苦は容易ならず、殊に秩序なき敗残兵、匪賊など随所に出没して、在留同胞の生命財産を脅かし、甚しきは虐殺を行い、住家を焼毀する等暴戻言語に絶す。我が軍はこれを厳戒排撃に努め、その犠牲はまた少からず……将士の労苦一層加わるものあり、よって我が社は慰問の微意を表すため、金一万円を支出して二万個の慰問袋を調製し、直ちにこれを現地に送る」

 

 これと合わせても広く一般から慰問金を募集した。

 

 これは爆発的な反響を呼び、当初締切日の11月5日までに3万円、11月17日、5万円を突破、同29日には11万5千円、12月10日には25万円、23日には何と30万円を超えた。

 

 『大阪朝日』では、寄付者の名前、住所、金額を紙面に掲載したが、連日、大きなスペースを割き、ついには表の全面埋めるほどの寄付が殺到、国民の排外熱は大きく盛り上がり、事変への熱狂的な共感、支持となってハネ返った。新聞報道の過熱が国民へと伝播していったのです。

 

 10月24日に、原田棟一郎取締役ら慰問班3人が慰問金、慰問袋を持って現地へ出発しました。こうした『朝日』の協力ぶりに、関東軍は感謝して、10月27日に、本庄繁関東軍司令官から村山龍平大阪朝日社長に感謝状が贈られます。

 

  「謹啓、今次の事変については終始熱誠なる御後援をいただくのみならず、今回また特に慰問使を御差遣下され、かつ出動将卒一同に対し、慰問品を御寄贈なし下され候段、感謝に堪えず、ここに一同を代表して、厚く御礼申述べ候」

 

 大々的に報道して既成事実を追認し、社説でも軍の行動を容認した上に、さらには慰問金や、慰問袋まで贈るという、三位一体の協力ぶりが、関東軍からの感謝状となって現われたのである。

 

 『大阪朝日』は事変約2ヵ月後の11月15日に「満蒙の正しい知識」(53頁)と題する小冊子(非売品)を読者に配布した。

 

 この冊子の目的は「満州事変の本質、経過およびその反響を明かにし、満蒙問題に対する正しい知識を与える」というもの。興味深いのは、この小冊子の中で、「満州事変と大阪朝日新聞」と題して、同社の事変への姿勢、報道ぶりを次のように書いていることです。

 

 「一朝、国家有事の際に、わが大阪朝日新聞が巨然たる全社の総機関を動員して、その信ずるところの使命に向って邁進するはもとより当然のことでありますが、今回の満州事変に際して、この信念のもとにまさに不断の努力をいたしつつあります。(中略)

 満州事変に対する大阪朝日新聞の態度は、あくまで国際正義の旗職のもとに、邪悪と非道とを排撃するにあるのはもちろんですが、新聞そのものとしては現代の新聞機構をその頂点にまで働かせて、いかに迅速に、いかに完全に、いかに正確に報道の任務を果すかにあります。満州事変勃発以来、大阪朝日新聞が近代新聞史1に描きつつある条線、すなわちその業績はまたもって記録的なものであり得ると信じます」

 

 事変勃発後の目ざましい報道ぶりは、近代新聞史上の記録であった。以上の内容を分析すると、

 

 @ 記事としての大々的な報道である。連日の号外、写真ニュース、映画の上映といった大々的な報道で既成事実を追認して、結果として抜きさしならぬ状況を作る。

 

 A 次いで報道と並んで事業でも満州駐留軍への慰問金や朝鮮同胞救済のキャンペーンなどを多角的に行い、国民の事変への関心をいっそう盛り上げて、熱狂的な世論づくりを行い、関東軍と国民とのパイプ役を果たす。

 

 B 報道ばかりでなく、客観的、冷静であるべき社説でも軍の行動を無条件に容認し、政府を一層苦境に陥しれ入れる。

 

 こうした三位一体の協力ぶりが、逆に言論統制への道を開き、自らの首をしめる結果を招いてしまったのです。荒木貞夫陸軍大臣はそれまでと打って変わった新聞の絶大な協力ぶりに感謝して、こう述べています。

 

 『今次の満洲事変を観るに各新聞が満蒙の重大性を経(たて)とし皇道の精神を緯(ぬき)とし、能く、国民世論を内に統制し、外に顕揚したることは日露戦争以来稀に見る壮観であって、我が国の新聞及び新聞人の芳勲偉功は海に特筆に値すものがある」

 

 さて、ここで問題になるのは『大阪朝日』の高原社説はなぜ「木に竹をついだ」かのような180度の転換が行われたのかということです。この大転換の裏には一体何があったのでしょうか。(つづく)