前坂 俊之/静岡県立大学国際関係学部教授/満州事変前夜、日中戦争、太平洋戦争を通してみる戦時を目前に変質していった新聞メディア―権力に操作される新聞の姿、先導する「読売」の今の役割ー(3)08/05/07

 

満州事変前夜、日中戦争、太平洋戦争を通してみる戦時を目前に変質していった新聞メディア

 

―権力に操作される新聞の姿、

   先導する「読売」の今の役割(3)

 

前坂俊之(静岡県立大学国際関係学部教授)

 

満州事変の勃発

 

(1) 情報は筒抜け、頭かくして尻隠さず

 

満州事変は1931(昭和6)年9月18日、中国の奉天北郊の柳条湖付近で満鉄の線路の一部が爆破されたことに始まります。

 

当時、政府や軍部は中国側が仕掛けたと逸早く公表しましたが、戦後になって東京裁判で関東軍の謀略だったことが初めて明らかにされました。

関東軍の石原莞爾中佐が中心となって、板垣征四郎大佐と石原のコンビで強引に進め、 板垣、石原、花谷正少佐(参謀)らの三人で満蒙問題についての研究会を何度か持ち、昭和6年春ごろ、柳条湖事件の計画を作成したのです。

 

同年6月には陸軍中央部の支那班長根本博中佐、ロシア班長橋本欣五郎中佐らにも相談、関東軍部内でも秘密を厳守し、同志を選んで計画を打ち明け、爆破班などの実行分担を決めて、実行に向け着々と準備しました。

 

満鉄爆破は当初、9月28日に予定していました。ところが、現地で金で買収した大陸浪人が酔って大言壮語し、計画をしゃべり、弾薬や軍需品を集めているという情報が外部にもれてしまった。

 

 9月15日、現地で情報をキャッチした林久治郎奉天総領事は幣原外相に「関東軍が近く軍事行動を起こす」という機密電報を送った。幣原外相は驚いて直ちに南次郎陸相に「若槻内閣の外交政策を覆すもの。断じて黙過できない」と抗議した。このため、軍中央は同日付で参謀本部第一作戦部長・建川美次(少将)を満州に派遣した。

 橋本はこの件を暗号電報に託して板垣へ急報したので、あわてた板垣、石原、花谷らは急きょ16日夜に集まり、対策を協議した結果、結局18日夜に決行をくり上げたのです。

 

 建川は18日午後に奉天に到着し、その夜は料亭「菊文」で板垣、花谷らから事情を聞いた。蓼川は「君らの事が半分あばかれた。中央は止めよという。自分の意見はうまくやるならやれ、駄目なら止めた方がよかろう」と述べ、結局酔いつぶれて寝込んでしまった。

 建川の口ぶりに板垣、花谷は本気で止めようとしていない軍中央の意向を察知し、計画通りに実行したのです。建川自身はまさか、その夜にやるとは思っていなかった。

 

鉄道爆破に当たったのは河本末広中尉とその部下数人です。爆破は満鉄のレールを列車が通過不能にならないよう、あらかじめ計算し、被害を最小限度にとどめて小型爆薬を仕掛けた。午前10時過ぎ、「ドーン」と大きな爆発音とともに満州事変は関東軍の謀略によって開始された。以上が花谷証言である。

幣原外相は19日朝、駒込の自宅で各紙朝刊を読んで初めて事変を知った。すぐ首相官邸にかけつけ、若槻首相に外務省電報による概要を報告、臨時閣議を召集するよう申し出た。

 

林奉天総領事からは「支那側に破壊せられたりと伝へられる鉄道個所修理の為、満鉄より線路工夫を派遣せるも、軍は現場に近寄らしめざる趣にて、今次の事件は軍部の計画的行動に出てたるものと想像せられる」との極秘電報が届いた。

こうして「関東軍の謀略か?」という情報はすでに政府の知る所となった。西園寺公望の秘書の原田熊雄も19日朝、新聞で事実を知った瞬間、直感的に「いよいよ、やったな」と思った。原田はすぐ調査し「要するに、関東軍司令官が建川が持っていった陸軍大臣の親展書を見ない内にかねての計画を実行させようということ」らしいという真相を突き止めた。

 

(2)事変勃発直後に真相は露見していた。

 

 このように、事変勃発直後に真相の一部はすでに判明していた。新聞も一触即発の危機にあることは十分知っていた。19日の臨時閣議で若槻首相は南陸相にただした。

 

「原因は支那兵がレールを破壊した正当防御であるか。もしそうではなく、日本軍の陰謀的行為ならば我が国の世界における立場はどうするか」とクギを刺し、これ以上、事件を拡大しないよう指示した。幣原外相からの情報で軍部の暴走にブレーキをかけたのである。

 

外務省には関東軍の暴走との情報が次々に入っていた。

<在奉天林総領事より幣原外務大臣宛の電報、外務省に9月20日午前到着>

 『今回軍隊出動の計画はすでに14日以来、非常演習として予行せられたり・・事件の発生した日の朝、駅員が建川少将と認めた人物を、安奉線により来奉せり、以上のような情報を総合すると、我軍の今回の行動は予定の計画の実現と推定される。支那側の無抵抗態度と我軍事行動に伴う小事故が、在留外人を刺激し世界の世論が我方に不利なる傾向が現われ、今後における対外政策益々難局に陥るのではないかと憂慮に絶えず』

 

 

『軍側の鉄道爆破現場への立ち入り阻止について』第664号(極秘) (塚本関東長官より幣原外務大臣まで)

 

『木村理事の談によれば鉄道爆破直後満鉄線を修理のため、保線工夫を現場に入れんとしたるも、軍側の阻止により・・(脱)破損箇所は下り約70センチ、上り線約10センチが爆破されたものらしき痕跡あり。枕木の破損も2本に止まり、破損箇所も両線合計1メートルに達しないため、容易に修理できた。

 

又奉天警察特務は兵卒が昼以来準備を命ぜられ、又復夜間演習かと思いたるに本物なりとし語り合えると耳にしたることあり、また8日午後(事件前)一将校がすでに水杯をなして来たとの旨を聞きこみたることあり』

 

 しかし、関東軍は奉天を占領し、戦線を次々に拡大していった。意を通じていた朝鮮軍は増援要請により、19日には飛行隊を出動させ、部隊を国境に向け派遣した。21日林銑十郎司令官は閣議の了承、天皇の命令を得ることなく、独断で部隊を越境させてしまった。

 

 軍中央は「やむを得ない」と事後の大命降下を迫り、若槻首相も断固として「不拡大方針」を堅持せず、優柔不断で越境の経費支出を閣議で承認してしまった。このような事態の推移の中で、新聞はどう報道したのか、みてみよう。

 

 

(3)朝日新聞の満州事変報道

 

 満州事変が勃発したのは正確には1931(昭和6)年9月18日午後10時25分であった。第一報の『電通報』が『大阪朝日』本社に入電したのは約4時間後の19日午前2時20分であった。

 

 同事変勃発は『電通(日本電報通信社)』の大スクープとなったが、現地で最も早く発信したのは『新聞聯合社』だった。これが現地の軍部検閲に引っかかりストップしている間に 、『電通』の第二報が京城をへて東京へ打電するという迂回作戦で『新聞聯合』から2時間後に打電しながら、完全スクープとなった。

 

勃発の瞬間、現地の『朝日』奉天通信局長の武内文彬は入浴していた。「ドーン」とガラス戸が破れ、家を揺るがす大音響がとどろき、次々に重砲の爆音、機関銃の銃声が響いた。電話のベルが鳴り、妻の「アナタ電話です。国家の一大事だそうです。お風呂どころの騒ぎじゃないです」とのかけ声に、武内は裸のまま、飛び出し第一報を本社に打電した。徹夜で約8時間の間に計118通の至急電報を打ち、『朝日新聞』開闢以来の記録を作った。

 

 すぐ奉天通信局員のK君が自動車でかけつけてきた。「イヨイヨやりよったネ」と話しかけると、「とうとうやりましたネ」とK君も顔を真っ赤にして興奮していた。

一方、『東京朝日』編集局に第一報が入ったのは午前2時半ごろ、整理部が市内版の大組みを終って工場から編集局へ上がってきた時だった。

 

「奉天で日支軍衝突!」「原因は支那正規兵の満鉄線爆破……」「深夜の奉天市内は今や砲声轟く戦火の巷となった……」という電報が至急電で飛び込んできた。

「編集局員は総立ちとなった。この総立ちこそ国民総立ちの第一であったに相違ない。はり出しのため主要地方通信局への速報、号外準備の動員など編集局の神経は高圧電気を通した電線の如くになった」

 

 

『東京朝日』の活動は速報だけではなかった。「翌十九日には早くも編集局の論説委員会が開かれて、事件に対する正しい見解と態度が決定された。日露戦争以来の日本の建て前と正当な権益の擁護、新聞編集には単に日本国内の読者のみを対象とせず、世界の世論を考慮に入れること−これが事変を中心としての我々の新聞製作の標識であった」と当時の『東京朝日』社会部長・鈴木文史朗は書いている。

 

 

さて、『大阪朝日』では第一報が入ると、航空部はすぐ手配し、翌午前8時40分には、大阪城東練兵場にある格納庫から、コメット機、ブス・モス機2機に特派記者と写真班を乗せて現地へ飛び立たせた。

 

『朝日』は当時、航空部に力を入れていた。社内に飛行機班を常設しており、コメット機、ブス・モス機(二機)、サルムソン機、義勇号の計5機を有し、他社を圧倒していた。

 

 この飛行班が文字通り“空の新聞記者“として大活躍した。20日にはコメット機が現地の生々しい写真を、京城から広島まで空輸し、中国各地へも記者、カメラマンの特派員計22人が次々に送り込まれていった。内訳は、記者14人、カメラマン8人。記者の中には戦後、「天声人語」を担当、一躍名文家として著名になった後の編集主幹・荒垣秀雄の若き日の姿もあった『朝日』の圧倒的なその資本力と機動力で、日支交戦の写真や記事の号外が次々に発行していった。号外は、2頁から4頁の付録で発行され、事変が一段落するまでに計11回に及んだ。

 

 

 これに加えて大付録も出した。9月22日の本紙には「満蒙早わかり」と題して地図入りの1頁の平易な解説を添付した。国際連盟に持ち込まれてからは、連盟の本質や機構を説明した「国際関係早わかり」(2頁)を9月27日に添付した。事変と同時に、活動写真班が現地に派遣され、奉天、長春などで軍の奮闘ぶりがフィルムにおさめられ、21日には本社に空輸された。

 

 

 早速、大阪朝日会館でニュース映画が上映され、第二報、三報が到着のたびごとに大阪中之島公園などで封切られた。大阪、神戸、京都、広島、名古屋、金沢、高松、岡山、門司などで公開され、大好評を博した。このように一大報道体制を敷いて、刻一刻と事変の進展を速報し、号外を出しまくった。

 

 

 満州事変を『朝日』がどう報道したか、を知る貴重なデータが1932(昭和7)年1月25日から、東京朝日新聞社5階で開かれた「東西朝日満州事変新聞展」で展示された。それによると、事変の社説は54回。特電の回数もケタ外れで、普段は月50通から100通なのだが、事変発生の当日(9月19日)は162通。9月中は360通、11月は525通で、12月末までに3,785通にのぼった。

 

 

 これらの電報は奉天、北平(北京)、天津、錦州、営口、大連、チチハル、ハルビン、長春、吉林などの16ヶ所に配置された総勢60人という特派員から打電された。60人中43人は『大阪朝日』の特派員であった。

 

 

 号外も連日で、日によって朝夕刊で発行されており、9月11日より翌32年1月10日までの間に、じつに131回、その大部分は1頁大の号外であった。慰問金の総額は38万円余。特派員の満州事変報告演説会は東日本で70回開かれ、約60万人の聴衆が詰めかけた。

 

満州事変のニュース映画を各地で上映する映画班の活動もすさまじく、公開個所1501、公開回数4002、観衆は1千万人を記録した。

 

戦争という新聞にとって最大のニュースに対して、全精力を挙げて取材、報道すること、これは当然のことである。ただ、その大々的な報道が軍部が謀略によって次々に作り出した既成事実を無条件に追認していき、軍国主義、国民の愛国心、排外的ナショナリズムを大きくあおる結果になったことも事実である。

 

(つづく)

 

 

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