満州事変前夜、日中戦争、太平洋戦争を通してみる
戦時を目前に変質していった新聞メディア
―権力に操作される新聞の姿、先導する「読売」の今の役割(2)

前坂俊之(静岡県立大学国際関係学部教授)

 

(1)満州事変は関東軍の自作自演による謀略!

1931年(昭和6)9月の満州事変の勃発が関東軍の謀略によって起こされた自作自演のものだったことは、太平洋戦争敗戦後の東京裁判ではじめて明らかにされ、国民は知ったというのが、これまでの戦争メディア史の通説です。

政府も新聞も軍部のウソの発表にだまされて、関東軍の暴走をチェックできず、関東軍が次々に軍事攻撃の範囲を拡大して、既成事実を作っていくのを追認報道していき、気がついてみると、国際連盟から追放され、傀儡国家・満州国を建国して、抜き差しならない結果を招いてしまったのです。

それもこれも、満州事変の最初の一発は中国側から仕掛けられたものであり、関東軍の反撃は「正当防衛である」という軍のウソの発表によって新聞メディアも完全にだまされた、というわけです。

また、当時の新聞報道は『新聞紙法』などで縛られ、言論・報道の自由は制限されており、事変の真相をたとえ取材できても、検閲や報道禁止などによって書くことができなかったことは、これまた事実です。

今のメディアの状況とは全く違うのです。戦後の現憲法21条などによる「言論、表現の自由」の体制とは全く違う言論統制、弾圧の時代であり、中でも戦争報道が最も厳重な取り締まりの対象になっていたことを知らないと、戦争とメディアの矛盾、二重性を読み解くことはできません。

もし、満洲事変の勃発時に関東軍の謀略であることを新聞がすっぱ抜いて、軍部の暴走を徹底的に批判し、世論に訴えて戦争に歯止めをかけていたならば、その後の歴史的な状況は変わっていたのではないか、というif論議がこれまでもよくありました。
しかし、私はこの議論はピントはずれと思います。満洲事変が関東軍の仕業であると仮にスッパ抜いたとしても、軍、内務省などの検閲によって報道は差し止められますから、書けません。知っていたとしても、書けなかった状況にあったのです。

(2)朝日・緒方竹虎の反省と回顧

ただ、次のような事実もあります。満洲事変の現場に派遣された大阪毎日記者は「現場では関東軍がやったものだと関係者が話しており、馬鹿馬鹿しくなってすぐ引き上げた」という身辺記録が憲兵隊記録として残っているのです。現場では関東軍の先制攻撃、戦線拡大は一部には公然の事実だったことを示しています。

ところが、満州事変から戦時下にかけての朝日新聞を代表したのは編集局長、主筆の緒方竹虎です。その緒方の回顧録の中で次のように書いています。

敗戦後、GHQの新聞担当課長・インボーデン中佐は緒方に「日本の新聞は時の政府や軍部になぜこうもやすやすと屈伏したのか」と次のように質問しました。

 「もし、当時の新聞がこの動き(戦争への)は熟慮され議論されてしかるべきだと言い張ったならば、東条英機が日本を引っぱり込んで、卑怯にも合衆国を攻撃させるようなことはあえてしなかったのではないか」

 緒方は黙ってうなずいた。『朝日』がその力を最も発揮すべきときに発揮できず、敗北して、軍部の独走の前に国家も国民も蹂躙された責任を苦い思いでかみしめていた。緒方はこう書いています。

 「僕は今から考えてみて、中央の大新聞が一緒にはっきり話し合いが出来て、こういう動向をある適当な時期に防げば、防ぎ得たのではないか。
実際、朝日と毎日が本当に手を握って、こういう軍の政治干与を抑えるということを満州事変の少し前から考えもし、手をつけておれば出来たのではないかということを考える。軍というものは日本が崩壊した後に考えてみて、大して偉いものでも何でもない。一種の月給とりに過ぎない。
軍の方からいうと、新聞が一緒になって抵抗しないかということが、終始大きな脅威であった。従って、各新聞社が本当に手を握ってやれば、出来たのではないないかと、今から多少残念に思うし、責任を感ぜざるを得ない」(緒方著『五十人の新聞人』 電通1955年刊 206−7P)

 

この緒方の発言に私はいささか違和感を覚えます。新聞トップとしてのジャーナリズムの取材力、事実追及能力、事態の推移を読む先見力、ジャーナリストとしての自覚と責任感などについてです。

朝日の代表者として、満洲事変が関東軍の謀略によって起こされたという真相を当時ホントに見抜けなかったのでしょうか。この点がまず1つの疑問です。

なぜなら、前述の大阪毎日の記者の例や、「東京日日」(毎日)の陸軍省担当の石橋恒喜記者も事変約2ヵ月後に陸軍報道部員から関東軍の謀略によるものだと聞いたと自著『昭和の反乱』【高木書店、1972年刊】で書いています。

事変勃発時の奉天総領事からの電報でも、関東軍の謀略であるとすぐバレバレで、幣原喜重郎外相、西園寺公望らはこれにより、張作霖爆殺事件の例もあり、関東軍の陰謀とすぐピンときたというのです。政府が関東軍の暴走にブレーキをかけて、不拡大方針をとったのもこのためです。

(3)なぜ、謀略を見抜けなかったのかー新聞記者の取材力、先見力不足!

つまり、関東軍の先制攻撃のやり方は張作霖爆殺事件同様にすぐバレるレベルの低い謀略だったことを示すこと事実が多く出てきたのです。次の点をなどみても、毎日の記者だけではなく、およそ取材を経験したものならば、満州事変の勃発とその後の迅速な戦線拡大、占領の裏に謀略を嗅ぎ取ることができたはずです。

(1)満州事変は張作霖爆殺事件からわずか2年3ヵ月後の事件。張作霖爆殺事件が河本大作ら関東軍の犯行であり、満洲某重大事件として真相が秘匿されながら国会では大問題となり、田中義一内閣がつぶれた一大事件です。新聞紙面でも大きく扱われて、関東軍がやったものと、巷間にもれ伝わってきていた。その記憶がまだ生々しく残っているときのことなのです。

(2)しかも両事件とも現場はいずれも奉天で、わずか十数キロしか離れていない、近距離にあった。

(3)張作霖爆殺事件は真相がひた隠しにされ「満洲某重大事件」と呼ばれていたが、奉天支局の新聞記者はほとんどすべてが河本大作の率いる関東軍の犯行だと、事件直後にすぐ知っていた、と新聞記者の戦後の回想に書いています。

以上3点の条件を上げただけでも、満州事変の真相がピンと来なかったとはとても信じられないのです。もし、本当に緒方が知らなかったとすれば、朝日の見識、取材力こそ疑われてしまいます。

つまり、朝日も、関東軍が先に手を出したことは、事前なり、事後には当然知っていたものと考えた方がより適切であり、そのことは無視されていたのです。

そのために、満州で日本の権益が危うくなり、日中の対立がエスカレートして、中国側の日貨ボイコットや権益返還の動きが高まる中で、国益を追及すること、満洲権益の死守は当然であり、機先を制して満洲全体を占領して、国家建設しようとした関東軍や石原莞爾の軍事行動には、たとえそれが謀略によって先に仕掛けたものであっても結局は朝日も、毎日も基本的に賛成の立場にあったのではないでしょうか。

その後、日本のほとんどの新聞が『満州事変の結果としての満州国の独立を支持して、満州国の独立に国際連盟が反対すれば、脱退せよ』と全紙一致して声明を出しているところを見ると、満蒙の特殊権益論の死守にもともと賛成だったのです。

そう考えれば、先に手を出したことなどはどうでもよいというか、余り問題にされていないことがわかりますし、納得がいきます。目的のためには手段を選ばずだったのではないでしょうか。

(4)戦争の行方を唯一見抜いた石橋湛山の卓見、洞察力

石橋湛山のように「軍事力によって満蒙をたとえ植民地にして占領しても、遠からず民族独立運動などによって手放さざるを得なくなる。それよりも平和的な自由貿易によって日本の経済的な利益は十分達成することができる」という満蒙権益の放棄論、小日本主義の主張は唯一の少数意見であり、卓見でした。

文字通り戦前までの日本は「大日本帝国」を名乗っていた通り、西欧に追いつけとばかり「富国強兵、殖産振興」によって、日清戦争、日露戦争、満州事変と戦争をしていない時の方が少ないというほどの戦争の歴史が明治以降、昭和戦前までの日本の歴史であり、軍、政府がめざしたものは大日本主義であり、西欧列強の帝国主義、植民地獲得競争の最後の参加者となったのです。

石橋湛山の驚くべき卓見、歴史を正確に見通した先見性と洞察力の十分の一も朝日や緒方、他の新聞も残念ながら持ち合わせていなかったということです。

大日本主義の遂行、中国、アジアへの拡張主義、侵略がどのような結果をもたらすのかーという将来を全く見通せなかったのです。本来、ブレーキ役を果すべき新聞、ジャーナリズムが逆にアクセルの役割を果して、壊れた暴走車としての「大日本帝国」は破滅にむかって坂道を転がり落ちていったのです。

唯一、その先まで一貫して正確に予測していたのは石橋湛山一人です。ジャーナリストとしての力量に月とスッポンほどの差を感じます。ジャーナリズムの真価は決して部数の大きさ、利潤をどこまで上げたかという点ではなく、真実を知らせて、歴史を正確に洞察する力量にあるのです。

 

緒方の文章にもう一度帰って考えてみますと、たしかに、軍人にしても官僚にしても、役人にすぎず、新聞が一斉に放列を敷いて批判すれば 一番怖い存在であったことはいうまでもありません。これは言わずもがなのことです。

ところが、当時の二大新聞の『朝日、毎日』が一緒に手を組んで戦うということは決してありえませんでした。今でも『読売』『朝日』が組んでたたかうということがあり得るはずがないように……。

憲法問題やイラク戦争への自衛隊派遣問題などばかりか、この20年近く『読売』対『朝日』の論調の対立がますます深まっていることは読者のほうがよくご存知です。

日本の新聞、TV、メディアは「言論の自由」を守るために一致して戦うという姿勢が昔から気薄ですし、今ではいっそうジャーナリズムよりもコマーシャリズムに大きく傾いています。

(5)新聞の敗北―ジャーナリズム失格!

満洲事変当時の新聞界にとって、戦争勃発は部数獲得の絶好のチャンスだったのです。これほど激しい競争はないという新聞界において『朝日』『毎日』は、その圧倒的な資本力にものをいわせ、特派員を大量に現地に派遣して、父や息子や地元部隊の活躍ぶりを詳細に報道して、大きく部数を伸ばし、全国紙の地位を確立していったのです。

それと同時に、新聞の機械化がすすみ、飛行機や写真電送機などの登場によって、ニュースの速報性を高めていったことが、関東軍が暴走、拡大によって次々に作られる既成事実の即容認となり、見事に利用される結果になったのである。

明治、大正の政論新聞から大衆新聞に脱皮した朝日、毎日の大新聞は公平公正、客観報道、愛国報道のニュース速報が戦況報道にはピッタリであっても、戦争の真実を検証するには全く不向きなものであったことが示されています。

『朝日』『毎日』の二大紙に対抗し、つぶれかねない劣勢にあった『読売』は正力松太郎の陣頭指揮で満州事変の勃発を機に同年十一月二十五日に社運をかけて夕刊発行に踏み切りました。これが成功し、『読売』は生き残り、部数を飛躍的に増やして、三大紙の一角にくい込む手がかりを得たのです。

 同紙の満州事変に対する態度は『毎日』と同じく満蒙の特殊権益を守れというものでした。

「満蒙を日本の生命線とし、日本の権益は武力によってでも確保しなければならない、というものだった。国際連盟の問題についても日本の主張が通らなければ脱退もやむを得ないとの立場だった。(中略)明らかに追随的であったのである。横暴な軍部に対しても、事変のわずか前までは『論壇』で軍縮や軍政改革問題について、批判の筆をとっていたというのに、戦火があがってからはそのような文章は影をひそめてしまった」 (『読売新聞百年史』 読売新聞百年史編集委員会編1976年刊 349P)

 

以上のようにして、満洲事変では朝日、毎日、読売その他の新聞もほぼ一致して国策遂行に協力し、墓穴を掘ったのです。この歴史的な教訓から大いに学ぶ必要があります。

(6)満洲事変とイラク戦争の類似性

とくに、メディアの戦争責任の問題を考える場合も、なぜ満州事変の真相を報道できなかったのか、また、しなかったのか、その底にある国益を優先する考え方、満洲特殊権益論の死守が結局、敗北につながったことを見極めなりません。

事実の究明が役割のジャーナリズムが国益優先の論理にしばられると、ジャーナリズムは死んでしまうという苦い教訓です。

ちょうどイラク戦争から5年がたちましたが、イラク戦争の勃発である米国の謀略による先制攻撃がどんな無残な結果を5年後にイラクに引き起こし、米国でも大統領選挙の争点にイラクからの米軍の撤退がなっているのを見ると、ジャーナリズムは歴史から学ぶことの必要性をつくづく感じます。

満州事変とイラク戦争の経過を対比させながら研究することは、戦争メディア史、戦争ジャーナリズムの勉強に大いに役立ちます。

                                (つづく)