岩下俊三/フリージャーナリスト/権力の企みを見抜ける記者たちへの期待 /06/06/15


権力の企みを見抜ける記者たちへの期待 

岩下俊三(フリージャーナリスト)

僕は小泉さんが靖国参拝を「ココロの問題」という短いフレーズに閉じ込めていることを「対メディア戦略」として「うまいなー」と、感心している。とりわけその「ココロの問題」に外国政府が介入していいのか?という語り口が香具師の口上もおよばぬ「くすぐり」として、すくなくとも何も考えていない通りすがりの通行人の足を一瞬止める効果があるのだから、テレビのディレクターが「そのまま頂いて垂れ流し」たくなるのも当然だと思う。もちろん、残念ながら小泉さんは「フーテンの寅」ではなく、立憲国家の首相である以上、それらの言動は到底許容されるものではない!ないけれど、むしろ問題は、その責めは、それを許しているメディア側の「救いがたい退廃」にあると考えられる。

 で、なにがどう退廃しているかといえば、メディアの側が、嫌なことや難しいことを論じてもそうしたことは「売れない」と勝手に「思い込んで」いるからである。「すっきりと小気味よい歯切れのいい」フレーズは確かに一般読者や視聴者への「つかみ」になるだろうし、睡眠不足で過酷な報道の現場では、短くて便利なほうが「助かる」のである。実際「これはまずいよねー」といいつつ、かの“小泉フレーズ”で当座は「間に合わせて」しまう記者やディレクターがじつに多いのである。しかし靖国参拝問題について、法理論や判例を少しでも研究すれば、さらに靖国神社が戦前に果たしてきた役割・装置、その歴史的経過、天皇・国家に命をささげた殉国の士を軍国の神として靖国に祀ってきたことを考えれば、小泉首相が論拠としている憲法19条の「思想・良心の自由」に彼の行動があてはまらないこと、むしろ政教分離に違反していることなどが、容易に判断できるはずである。まして、そのことで近隣諸国を刺激し、浅薄なナショナリズムを煽ってしまうことも記者諸君はよく知っている。知りながら、垂れ流している。それはなぜか?

記者の退廃現象

 それは、はっきりいって「歴史」の視点から考えてみることから逃げているからだ。そもそも国民国家とは一人ひとりの合意を持ち寄って公共社会を形成することで成りたっているものだ。だとすれば、過去の栄光だけでなく、「悔悟」にも責任を持つべきであることは言うまでもなかろう。したがって「私」も「公」も、「歴史認識」を避けることはできないのである。憲法の条文にしても、なぜ現在の憲法が作られたかといえば、当然「歴史の反省」という文脈に依拠しているのであって、だからこそ権力を制限して個人の自由をまもるために「立憲」されているのだ。すなはち「国家神道」が「心の自由」を奪ったという反省が、政教分離や思想の自由という規範の礎だというのは衆知の事実である。

 現場の記者にそのことを言うと「岩下さん、そんなことは“言わずもがな”・・・・・なんですけど」と冷笑の的になる。「でも、みんな嫌がるんですよ」ともいわれる。しかし、本当に嫌なことやむずかしいことは聞きたくないと、国民が思っているのだろうか?知りたくないと思っているのだろうか?歴史認識を掘り下げた記事は本当に「読まれない」「売れない」のか?僕はそうは思わない。そう思っているのは掘り下げる努力を放棄し、社の上層部の顔色だけを窺って、職能意識を高めようとしない「退廃」したジャーナリストだけじゃないのか?ひょっとして。

 この国会で持ち出された案件、たとえば教育基本法改正、共謀罪、防衛庁の「省」への昇格、そして憲法改正への論議など、すべて国家が個人の「心の自由」を奪って権力の「ココロ」の意のままに強制しようとするタクラミであることは、すこし歴史を「認識」すれば分かるはずである。くしくも「構造」も「憲法」も英語で言えばおんなじだ。したがって「構造改革」は「憲法改革」であり「民営化」は「公の私化」に等しい。それは、つまりは権力である「私のココロ」=「私益」をあたかも「公」のように見せかけた歴史の轍を、再び国民に踏ませようとする「香具師の啖呵」に過ぎない。そんなものは国民を欺く「トリック」だ。だとすれば、僕は同名のドラマで仲間由紀恵さんがインチキを暴くときに使う「決め台詞」を拝借して、こう、言いたい。

「おまえたちのやってることは、何から何まで、するっと、お見通しだっ!!」


 

岩下俊三(フリージャーナリスト)

1948年生まれ。慶応大学卒、パリ大学在学中から映画制作、BBC、フランス2などでテレビドキュメント制作に従事。1985年よりテレビ朝日をベースにニュースステーション、報道特別番組を制作、世界中の紛争地域を取材。大学講師(表現文化論)。