岩下俊三/ジャーナリスト/ 巧妙な言論統制策も“民意”には勝てず 柳の下にどじょう二匹はいなかった /07/08/15

 

巧妙な言論統制策も“民意”には勝てず
柳の下にどじょう二匹はいなかった

岩下俊三(フリーライター)
 

 7月、期日を延長してまで行われた先日の参議院の選挙は結局自民党の大敗という結果に終わり、メディア各界においてもその分析と評論はまさに花盛りだ。しかしその裏側で起こっていた権力側と報道機関との陰湿な、建前だけの「言論の自由」を巡る争いについて事実を語ろうとするのものはいない。事実を語るものはドンキホーテとして業界から消えていかざるを得ない不文律があるからだろう。しかし知っていることを、ほくそえんで伝えないエリートの独占的な情報を、広く国民に流布することもまたマスコミの使命であり、がゆえに、一般国民に代わって知る権利を行使できるのだと思っていたが、どうも現実は違うような気がしてならない。こういうことをいうと、またもや老人の子供がえりと揶揄され、「青年の主張のようなメディア論など聞いてる暇などない」と叱責されるのがオチであろう。でも、僕はあった事実はいうことにしている。
 

 事実はこうである。前回の衆議院選挙を、事実上仕切ったとされる飯島 勲氏(政策担当秘書官)や世耕弘成議員(首相補佐官)たちは、どうもかつての成功体験が忘れられないらしく、「刺客」だの「郵政改革」だの漫画用語を駆使していれば、つまり凋落にあるテレビメディアを信じて、賭けにでて、勝利できるのだと思っていた。つまり小泉流の「ぶったぎる」的なテレビ用語さえ使えば、国民なんてチョロイもんだ、と思っていたのだ。そこで具体的には、対応年数を過ぎた昔の組織型議員や、若くても自民党の先日辞任した前農水相の赤城徳彦氏のようにテレビ言語に習熟していないで、官僚用語しか使えない人たちが自民党に多いことに、今更ながらつよい危機感を感じた。実はもっともこの体系で喋って誤解をうけやすいのが安倍総理自身で、具体的には彼が話し始めると分別視聴率が急に低下する傾向がある。そこで、世耕氏や飯島氏が(彼らは従軍慰安婦問題で失敗して事実上広報を辞している)後続の新しいおぼっちゃまたちに前例に倣って、一計を案じた。

 それが7月12日付けのテレビ各局にたいする通達である。内容は単純で「当確等の予想を出すとき、誤報を少なくしましょう」といった当たり前すぎる注意にすぎなかった。つまり道路は信号を見て渡りましょう程度の、つまらない話しではあったが、各テレビ局で、いわゆる“すねに傷もつ”つまり突かれれば傷のない局はない各局では、事実、見えないお化けにびびった。しかも各局のお歴々が総務省に出向き官総務相ならぬ若き課長の前にはいつくばって、幼稚園児に下されるような通達を、あたかもキリストの山上の垂訓を賜るように押し頂いてきたことは面白い。もちろん居並ぶ重役たちが、これの裏が「自主規制せよ」との通達であり、これこそが許認可権をもつ強制的なメディアコントロールだと思ったにしても、形をかえた言論弾圧だと思ったにせよ、かってに妄想を広げるのは自由だから、そんなことはないよといえば済むことだ。この政権与党の発した“おぼっちゃま”たちの「浅知恵」は、如実に当日の“選挙速報”の画面にあらわれた。
 まず自民党の天敵「久米 宏」が出演を本人が拒否したということで特番から“案の定”降りたこと、次に当確や当選の表示をNHKより早めにテロップで表示するのが、いままでの常識であり視聴率アップの定石であったにもかかわらず、完全に当選と決まるまで、つまりNHKより遅くテロップを出したのが、コメンテーターの過激な発言とは裏腹に“ああ現実の経営方針は大変だなー”と思わせた。しかも遅い順にあえていえば、もっとも権力に遠いという雰囲気を漂わせているテレビ朝日であり、TBSがそうであった(当確が遅かった)ことだ。僕のような老人としては、まことに誤報を報じないということは、こういうことをいうのかと、いまさらながら勉強した。
 ところがである。そういう画策も多数による強行採決まがいの暴挙も、マスコミは許しても“民意”は許さなかった。日本国民が民主主義に一歩近づいたのかもしれない。

 いずれにしても国民の一票は重い。新聞やテレビや雑誌をいかに巧妙な手を使って「言論弾圧」をしようとも、“民意”はまったく別のところにあったことは、我々も含めて肝に銘じるべきであろう。もっとも勝てば官軍、新たに擦り寄ろうとする「常に強いものの味方」、つまり民主党の味方になるには、もっと勉強がいるのかもしれない。どうも何時になっても利口になれない僕こそが、本当に「しょうがない」ジャーナリストなのかもしれない。