松 田  浩/ジャーナリスト/メディアは民主主義の「番犬」だ/05.12.10                  

 

「メディアの犯罪」という言葉を最初に使ったのは一九九三年の総選挙報道のときだった。「自民対非自民」の二者択一図式で小選挙区制に道を開いたメディアの役割を、ファシズムへの加担として告発した。今回の総選挙でメディアが演じた役割は、それに輪をかけていた。これを「犯罪」といわずして、何と呼んだらいいのか。

ジャーナリズムの最大の役割は、権力の監視である。それは権力が情報操作やシンボル操作を民衆支配の道具に使ってきた歴史の教訓に根ざしている。日本のメディアが、戦前から学んだのもそのことだったはずだ。そのメディアが小泉自民党に利用され、選挙民だましの大芝居に手を貸した。彼らはプロスタッフからなる特別チームを編成し、アメリカのPR会社と組んで周到にメディア利用の戦略を練ってきた。メディアの側にそれを見抜く「力」がなかったというより、むしろ民衆の「知る権利」の担い手として権力と正面から切り結ぶ姿勢が欠けていた。そこにメディアの退廃があり、市民のメディア不信の源がある。

「メディアの公共性」の核心は、メディアが現実の課題に人々の目を向けさせるかどうかにある。米軍再編に伴う在日米軍基地機能の拡充や日米軍事一体化のもつ危険性、若者の就職難、福祉の切捨て、目白押しの増税、さらに憲法改悪など。メディアはそれらの課題にどれだけ肉迫し、民衆の立場に立って権力と切り結んでいるというのだろうか。疑問である。

その一方でまかり通る数々の神話。「日米同盟は日本外交の基軸。そのお陰で平和が守られている」(小泉首相)などというのは、まさにその典型だ。幻の大量破壊兵器の存在を口実にイラク戦争を始めたアメリカ、 「先制核攻撃戦略」を公然と掲げるアメリカ、そんなアメリカに極東最大の戦略基地を提供する日米安保体制が、平和への脅威でこそあれ、なぜ「安全保障」などであるものか。

こうした日米軍事体制や、それに組み込まれた自衛隊の存在、そして集団的自衛権の発動を可能にする憲法九条改正への動きが、中国や北朝鮮の不安をかき立て、軍備増強へのカウンター圧力として働いている道理が、見えていないのだろうか。

これはまさに憲法九条の理念に逆行する「武力による威嚇の論理」に他ならない。民意の正確な反映という民主主義の原則に反して四割の得票で六〜七割もの議席獲得を可能にする小選挙区制の仕組みや「企業も社会的存在だから」という珍妙な理屈で特定政党への財界の政治献金を合理化する企業献金の論理――これら民主主義を歪めるまやかしの論理がまかり通っているのも、メディアが本来のチェック機能を果たしていないからだ。

民主主義や人権は憲法に条文が書き込まれてそれで終わりではない。それらを社会に実現するために闘ってこそ、初めてそれは根づくことができる。闘いがなければ権力は常に踏み込んできて憲法を空文化する。憲法をめぐる綱引きは、いまも続いているのである。

「新聞は、政府の、ではなく民主主義の番犬である」 このW・リップマンの言葉をメディアはいまこそ踏み止まって噛みしめる必要がある。ファシズムが確立してからでは遅いのだ!(元・立命館大学教授=メディア論)

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